この会社に入社して三ヶ月目、私は気付いてしまった。52階建てのこのビルで、エレベーターの待ち時間が人によって違うということに。
最初は気のせいだと思った。でも、毎朝のように目撃する光景は、明らかに異常だった。
ある人々は、ボタンを押してすぐにエレベーターに乗り込める。扉が開くタイミングが完璧で、まるでエレベーターが待ち構えていたかのよう。一方で、私のような人間は、いつまでたっても来ない。
「おかしいですよね」
同期の山田さんが言った。
「私たち、いつも20分は待たされるのに、部長たちはすぐ乗れる」
その日から、私は観察を始めた。エレベーターの待ち時間と、その人物の社内での立場には、明確な相関関係があった。役職が上がれば上がるほど、待ち時間は短くなる。逆に、派遣や契約社員は、私たち以上に長時間待たされていた。
まるで、エレベーターが人を選んでいるかのように。
ある日、新入社員の佐藤くんが泣きながら会社を去った。
「もう無理です。毎日2時間も待たされて…」
翌日から、私の待ち時間は19分に減った。
そして一週間後、係長への昇進を告げられた。待ち時間は15分になった。昇進は嬉しかったが、どこか不安だった。まるで、エレベーターに評価されているような気がして。
「エレベーターには魂が宿っているんですよ」
ある日、警備員の古河さんが教えてくれた。
「このビルが建った時から、乗客を選んでいる。価値のある人間とそうでない人間をね」
「でも、誰が価値を決めているんです?」
古河さんは深いため息をついた。
「エレベーターですよ。あいつらには、人間の価値が見えるんです。待ち時間は、その人間の社会的価値の現れ。上に行く資格があるかどうかの判断なんです」
その夜、残業を終えて帰ろうとした時だった。エレベーターホールで、取締役の中村さんが倒れているのを発見した。心臓発作だった。
救急車を呼ぼうとしたが、携帯の電波が入らない。階段は工事中。残された選択肢は、エレベーターで降りるしかなかった。
私は中村さんを抱えて、ボタンを押した。
扉が開くまでの時間は、3分。
これまでで最短の待ち時間だった。
しかし、エレベーターは私たちを地下へと運んだ。知らない階。ボタンにも表示されていない階。扉が開くと、そこには無数のエレベーターホールが広がっていた。
そこで私は理解した。
これが、エレベーターによる最後の審判の場所なのだと。
中村さんは目を覚まし、静かに立ち上がった。まるで、ここに来ることを知っていたかのように。
「ようこそ」
彼は別人のような声で言った。
「これが、上に行けなかった者たちの待合室です」
周りを見渡すと、かつての同僚たちが見える。佐藤くん。派遣の鈴木さん。先月突然辞めた課長。彼らは皆、永遠にエレベーターを待ち続けている。
「さあ、あなたはどうしますか?」
中村さんが問いかけてきた。
「上に行きますか?それとも、ここで待ち続けますか?」
エレベーターの扉が開いている。上か下か。選択の時が来たのだ。
でも私には分かっていた。
この選択自体が、既にエレベーターによって決められているということを。
私たちは皆、ただの乗客なのだ。
行き先を決めるのは、いつだって、エレベーターなのだから。