駅前の商店街の一角に、一台の古びたガチャガチャがあった。私が毎日の通勤途中に通り過ぎる場所だ。他の店舗が次々と入れ替わる中、このガチャガチャだけは、私が就職してからずっとそこにあった。
値段は500円。「思い出のフィギュア」というシンプルな文字だけが書かれている。見本も展示されていない謎めいたガチャガチャだった。
ある雨の朝、いつもより早く家を出た私は、ふとそのガチャガチャの前で足を止めた。これまで一度も回したことはなかったが、何かに突き動かされるように500円玉を投入し、ハンドルを回してみた。
カプセルの中から出てきたのは、小さな野球のグローブのフィギュアだった。それを見た瞬間、私は息を飲んだ。それは、小学生の時に失くして、ずっと心に引っかかっていた初めての野球グローブのミニチュアだったのだ。色味も、傷の具合も、完璧に一致していた。
不思議に思いながらも、次の日も同じガチャガチャを回してみた。今度は、中学時代に祖母が編んでくれた手袋のミニチュアが出てきた。あの手袋は引っ越しの際に紛失してしまい、ずっと後悔していたものだった。
それからというもの、私は毎日そのガチャガチャを回すようになった。出てくるフィギュアは、必ず私が過去に失くしたり、手放したりした思い出の品々だった。幼稚園の時の気に入っていた絵本、高校時代の文化祭の出し物で使った小道具、初めて買ったCDプレイヤー…。
しかし、やがて不気味な現象が起き始めた。
ガチャガチャから出てくるフィギュアが、まだ失くしていないものになったのだ。先週買ったばかりの腕時計、今朝使っていた傘、昨日もらったばかりの記念品…。そして恐ろしいことに、それらの本物は、必ずフィギュアが出てから数日以内に、何らかの形で失くなったり、壊れたりしてしまうのだ。
私はガチャガチャを回すのを止めようとした。しかし、どうしても目の前を通り過ぎることができない。まるで、私の意思とは関係なく、体が勝手にコインを入れ、ハンドルを回してしまう。
ある日、ガチャガチャから出てきたのは、私自身のミニチュアフィギュアだった。スーツ姿で、毎日同じように通勤する私の姿。その瞬間、背筋が凍る思いがした。
翌日、私は会社を休んで、ガチャガチャの所有者を探そうとした。しかし、周辺の店舗も、商店街の管理組合も、このガチャガチャについては何も知らなかった。電気も配線も繋がっていないのに、なぜか動き続けているという。
結局、私は通勤経路を変更した。遠回りになったが、あのガチャガチャからは逃れられた。しかし、時々思い出す。あの最後のフィギュア。私自身の姿は、いつか失われることを予告していたのだろうか。
私たちは人生で、様々なものを得て、そして失っていく。思い出の品々は、いつかは必ず手元から離れていく運命にある。そして最後には、私たち自身もまた、誰かの思い出として、小さなフィギュアのように記憶の中に残るだけなのかもしれない。
今でも雨の日は、あのガチャガチャのことを思い出す。そこには今も、誰かの失われた思い出が、小さなカプセルの中で永遠に回り続けているのだろうか。
そして時々、自分の部屋に飾った思い出のフィギュアたちを見ながら考える。これらは本当に、私が失くしたものの複製なのだろうか。それとも、失くした本物たちが、この形で私のもとに戻ってきたのだろうか。
答えは永遠に分からないだろう。ただ、雨の朝に聞こえるガチャガチャの音は、私たちの人生における「喪失」と「保存」の不思議な循環を、静かに物語っているのかもしれない。