カチリ。
またシャッター音が響く。デジタルカメラの液晶画面に映るのは、いつもと変わらない日常の一コマ。古びた団地の廊下、錆びた手すり、夕暮れに染まる空。でも、どこか違和感がある。
私は写真を撮ることに取り憑かれている。いや、正確に言えば「瞬間を封じ込める」ことに執着している。大学で実存主義哲学を専攻して以来、時間の流れそのものに疑問を持つようになった。
サルトルの言う「即自存在」と「対自存在」の狭間で、私たちの「今」とは何なのか。それを追い求めるように、私はシャッターを切り続けた。
最初は街の風景を。次に人々の表情を。そして今は…
「また撮ってるの?」
振り返ると、妻の美咲が立っていた。結婚して7年。彼女は私の写真への執着を理解してくれている…つもりだった。
「ねえ、最近おかしいと思わない?あなたが撮った写真…」
その言葉に、私は思わずカメラを握りしめた。気づいていたのだろうか。写真に映り込む異常を。
液晶画面を見返す。一見何の変哲もない団地の風景。だが、よく見ると手すりの影が不自然に長い。そして、その先には…
「私ね、昨日見てしまったの。あなたのパソコンの中の写真フォルダを」
美咲の声が震えている。
「どうして同じ場所を、同じ角度で、何百枚も撮り続けるの?そして…その写真に映ってる影は…」
私は答えられない。説明のしようがないのだ。シャッターを切るたびに、現実が少しずつ歪(ゆが)んでいく現象を。影が伸び、時には人影のようなものが映り込み、そして消えていく様を。
「永遠の一瞬を捉えたいんだ」
私は呟いた。
「でも、それは違う」美咲が静かに言う。「あなたは時間を止めようとしているんじゃない。時間から逃げようとしているのよ」
その瞬間、不意に周囲が暗くなった。夕暮れのはずが、まるで深夜のような闇に包まれる。手すりの影が、まるで生き物のように蠢き始めた。
カチリ。
反射的にシャッターを切る。液晶画面に映ったのは、凍りついた時間の中の美咲。彼女の後ろに立つ無数の影。そして、それらの影が少しずつ美咲に近づいていく…
「永遠」を求めて時間を切り取り続けた結果、私は取り返しのつかないものを見てしまった。現実と非現実の境界線が崩れ、シャッター音が響くたびに、新たな「何か」が這い出してくる。
「美咲!」
叫び声と共にカメラを投げ捨てた時には、既に遅かった。廊下には私一人。投げ捨てたはずのカメラだけが、床に転がっている。液晶画面には、最後に撮影された写真が映し出されている。
無人の廊下。伸びる影。そして、永遠に切り取られた瞬間の中に閉じ込められた、愛する人の姿。
カチリ。
今度は誰がシャッターを切ったのだろう。