【怖い話】深夜の客

赤い提灯の光が揺れる。路地裏のスナック「夢幻」の扉を開けると、そこには微かな音楽と、記憶の断片が漂っていた。

常連客のはずの私は、店内の様子がいつもと違うことに気がついた。カウンターの向こうでママが微笑んでいるが、その表情が少しずつ溶けていく。グラスを磨く手の動きが、空間に波紋を広げている。

隣に座る客の横顔が、見るたびに変化していく。先ほどまでスーツ姿のサラリーマンだったはずが、今は着物姿の老婆に見える。彼女―あるいは彼の声は、まるで遠い洞窟から響いてくるように空虚だ。

「ここに来るのは何度目ですか?」

ママの問いかけに、私は答えられない。昨日来たような気もするし、10年前に来たような気もする。記憶が重なり合い、混ざり合っていく。カウンターに置かれたウイスキーの琥珀色が、時間そのものを溶かしているようだ。

グラスを口に運ぶと、アルコールの代わりに誰かの思い出が流れ込んでくる。失恋の痛み、昇進の喜び、別れの寂しさ。見知らぬ人々の感情が、私の中で渦を巻く。

店内の鏡を見ると、そこには無数の私が映っている。若かりし日の私、年老いた私、生まれなかった可能性の私。彼らは皆、同じグラスを手に、同じ音楽に耳を傾けている。

ジュークボックスから流れる曲は、聴いたことのない歌のはずなのに、どこか懐かしい。歌詞は聞き取れないが、その旋律は確かに私の人生を語っている。

カウンターの奥の棚には、ラベルのない瓶が並んでいる。それらは酒ではなく、誰かの人生の一瞬を詰め込んだものなのかもしれない。ママは時々、それらの瓶から記憶を注ぎ足している。

時計の針は真夜中を指したまま動かない。しかし、窓の外では朝と夜が目まぐるしく入れ替わっている。この場所は、時間の流れから切り離されているようだ。

他の客たちの姿が、煙のように揺らめき始める。彼らの輪郭が曖昧になり、やがて空間そのものと同化していく。私は彼らもまた、この店に吸収された思い出の一部なのだと理解した。

カウンターに両肘をつき、氷の溶けるのを眺めていると、その中に小さな宇宙が広がっているのが見えた。無数の光が渦を巻き、それぞれが誰かの人生の輝きを宿している。

ママが新しいグラスを差し出す。その中には、まだ見ぬ未来が漂っている。それを飲み干せば、私は別の可能性の自分になれるのかもしれない。あるいは、永遠にこの場所に溶け込んでしまうのかもしれない。

店内には他の客が見えなくなっていた。私とママ、そして無数の記憶の欠片だけが、この空間を共有している。壁には、かつてここを訪れた人々の影が染み込んでいる。

「お客さん、もう閉店の時間ですよ」

ママの声が、遠く深い場所から響いてくる。しかし私には、もう立ち去ることができない気がした。私の一部はすでに、この場所の一部になってしまっている。

グラスを見つめていると、その中に自分の顔が映る。しかし、それは今の私の顔ではない。まだ見ぬ未来の、あるいはすでに失われた過去の私だ。

扉の向こうでは、現実が私を待っている。しかし、この「夢幻」という空間は、もはや私を手放そうとしない。私はここで、永遠に誰かの思い出を飲み続けることになるのかもしれない。

氷が溶け、グラスの中で小さな渦を巻く。その音が、誰かの人生の物語を奏でている。

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