【怖い話】雪の夜に帰る場所

 冬の夜、静かに雪が降る中、俺は久しぶりに早く帰宅した。仕事が忙しく、家で過ごす時間がほとんどなかったが、今夜は妻が特別な料理を作って待っていてくれるというので、定時で上がってきた。

 玄関のドアを開けると、暖かな灯りが迎えてくれる。部屋の奥から味噌汁の香りが漂ってきた。コートを脱ぎ、靴を揃えながら声をかける。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 妻の優しい声が台所から聞こえた。リビングに向かいながら、彼女の後ろ姿を眺める。エプロン姿で包丁を使い、器用に何かを刻んでいる。すっと伸びた背筋は昔と変わらない。

「寒かったでしょう? すぐ温かいもの出すから、手を洗って待ってて」

「ああ、ありがとう」

 洗面所で手を洗っていると、ふと違和感を覚えた。この家に帰ってきたのは、いつぶりだっただろうか。いや、それよりも——。

 いや、考えすぎか。

 席に着くと、妻は湯気の立つ料理を運んできた。肉じゃが、焼き魚、味噌汁。どれも懐かしい味で、まるで何年も前に戻ったようだった。

「お前の料理、やっぱりうまいな」

「そう言ってくれると嬉しい。久しぶりだから、気合い入れたの」

「久しぶり?」

 思わず首を傾げる。確かに最近は忙しかったが、それでも毎日帰っていたはずだ。

 妻は少し寂しそうに微笑み、俺の茶碗にご飯をよそった。

「ゆっくり食べて」

「ああ、そうするよ」

 二人で食卓を囲み、他愛のない会話を交わした。昔話や最近の出来事。妻は俺の話を嬉しそうに聞いていた。

 食事が終わる頃、彼女がふと静かに言った。

「……今夜は、一緒にいてくれる?」

 俺は戸惑った。いつもなら「当たり前だろ」と返すところだが、なぜか口をつぐんでしまう。

「どうした?」

「ううん、なんでもない。ただ、あなたとこうしている時間が……とても大切に思えて」

 そう言って彼女は微笑んだ。俺は何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。

 時計の針が深夜を指す頃、妙な違和感に襲われた。温かかった空気が、急に冷たく感じられる。

 ——葬儀場の白い花。  ——涙を流す親族たち。  ——棺の中で眠る、妻の姿。

 ああ、そうだった。

 妻は、もういないのだった。

 俺はその事実を思い出し、はっとして辺りを見回した。だが、そこにはもう誰の姿もない。台所には洗い物ひとつなく、ダイニングテーブルも整然としている。

 しかし、微かに漂う味噌汁の香りだけが、まだそこに残っていた。

 込み上げる何かを抑えながら立ち上がる。まるで何事もなかったかのように、家は静かにそこにあった。だが確かに、さっきまで妻はここにいた。俺と話し、笑い、料理を作ってくれた。

 ——いや、本当にそうだったのか?

 自分の手を見る。そこには箸も何も握られていなかった。テーブルの上に置いたはずの茶碗すらない。

 そのとき、背後から声がした。

「ねえ、一緒に行こう?」

 振り向くと、そこに妻が立っていた。やさしい笑みを浮かべて。

「どこへ……?」

「あなたの行くべき場所へ」

 彼女はそっと手を伸ばしてくる。その手を握れば、俺は——。

 次の瞬間、遠くで朝を告げる鳥の鳴き声がした。

 気がつくと、俺は冷たい床の上に倒れていた。身体に力が入らない。何かが胸を締めつける。

 薄れゆく意識の中、最後に妻の姿を見た気がした。彼女はそっと微笑み、俺の額に優しく手を置いた。

「おかえりなさい」

 それが、俺の聞いた最後の言葉だった。

 ——その朝、男は静かに息を引き取った。  雪がしんしんと降る中、彼の顔には穏やかな笑みが浮かんでいたという。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です