【怖い話】帰らざる分かれ道

山道を登りながら、私は地図を見直した。夕暮れが迫る中、本来なら二時間前には山小屋に着いているはずだった。しかし、どこで道を間違えたのか、見覚えのない分かれ道に立っていた。

左の道は下り坂で、うっすらと踏み固められた跡がある。右の道は平坦だが、草が生い茂り、あまり人が通った形跡がない。地図には載っていない分かれ道だ。

「どちらだろう」

声に出して言ったとき、私の言葉が妙に空間に響いた。まるで森全体が息を潜めているかのようだった。

日が落ちる前に決断しなければ。私は左の道を選んだ。

歩き始めて十分ほど経った頃、前方に人影を見つけた。小柄な老人が、杖をついて歩いていた。安堵した私は駆け寄った。

「すみません、山小屋までの道はこちらで合っていますか?」

老人はゆっくりと振り返った。その顔には、深い皺が無数に刻まれていた。しかし、最も奇妙だったのは、その目だった。まるで光を吸収するように、漆黒で、底知れない闇を宿していた。

「お前さんは間違った道を選んだな」老人は微笑んだ。その笑顔には温かみがなかった。「しかし、選んでしまった以上、進むしかない」

「違う道に戻ったほうがいいですか?」

「戻れるものなら、戻るがいい」老人は言った。「だが、この道を一度選んだ者は、二度と分かれ道には辿り着けん」

そう言うと、老人は私の横をすり抜け、来た方向へと歩いていった。

不安になった私は、すぐに引き返すことにした。しかし、十分歩いても、二十分歩いても、分かれ道には戻れなかった。さらに奇妙なことに、道は常に下り坂のままだった。上ることなく、ただ下る一方だった。

辺りはすっかり暗くなり、私は懐中電灯を取り出した。その光の中、道の両脇に点々と置かれた小さな石塔に気づいた。よく見ると、それは墓標だった。

恐怖で足が震えた。しかし、今さら引き返すこともできない。ただ前へ、前へと進むしかなかった。

やがて、森が開け、広場のような場所に出た。そこには大きな木があり、その幹から無数の道が放射状に伸びていた。全ての道の入り口には、何かが書かれた木の札が下がっている。

近づいて見ると、それぞれの札には人の名前と日付が刻まれていた。ある札には「田中誠二 1987年8月15日 選択」と書かれ、またある札には「佐藤明美 2002年3月3日 選択」とあった。

そして、最も新しい札に自分の名前を見つけた。

「鈴木啓太 2023年11月10日 選択」

今日の日付だ。

恐ろしさで動けなくなったとき、背後から声がした。

「選ばなければならない」

振り返ると、先ほどの老人が立っていた。今度は杖ではなく、長い鎌を持っていた。

「ここは人生の分かれ道だ。生きている間に幾度となく訪れるが、気づかぬだけ。しかし、お前は今、気づいてしまった。選んだ道の行き先を知ってしまった」

「これは何の場所なんですか?」震える声で尋ねた。

「全ての終わりであり、新たな始まりの場所だ」老人は答えた。「お前が最初の分かれ道で選んだのは、『知る』という道だった。今、お前は知ってしまった。だからこそ、次の選択をしなければならない」

老人は放射状に伸びる道々を指さした。

「どの道を選ぶかは、お前次第だ。しかし、一度選んだら、二度と戻れない。それが分かれ道の定めだ」

私は全ての道を見渡した。どれも暗闇へと続いているように見える。どの道が正しいのか、どの道が安全なのか、わからない。

「選ばないという選択肢はないのですか?」

老人は静かに笑った。「選ばないことも、一つの選択だ。しかし、その場合は私が代わりに選ぶことになる」

その時、遠くから鐘の音が聞こえた。老人は空を見上げた。

「時間だ。選べ」

迷いながらも、私はある道を指さした。老人は頷き、私の名前が書かれた札を取り、その道の入り口に掛けた。

「行くがいい。次に分かれ道に立つまで、お前はこの選択を忘れるだろう」

私がその道を踏み出した瞬間、全てが霧のように薄れていった。

気がつくと、私は山小屋のベッドで目を覚ました。窓の外は明るく、新しい朝を告げていた。夢だったのか。安堵のため息をつきながらも、なぜか胸の奥に言いようのない喪失感が残っていた。

小屋の管理人に昨日のことを尋ねると、彼は不思議そうな顔をした。

「あなたは昨夜、まっすぐここに来ましたよ。分かれ道なんてありませんでした」

その言葉に、私は言いようのない恐怖を感じた。

そして今、この文章を書いている私は、あの分かれ道で正しい選択をしたのかと考える。もしかしたら、今もどこかで別の私が、別の道を歩いているのかもしれない。

我々は皆、知らぬ間に無数の分かれ道に立ち、選択を繰り返している。そして、選ばなかった道の行き先を、永遠に知ることはできないのだ。

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