世界から男が消えていった。
最初は気づかなかった。ある朝、会社に行くと、男性社員が数人欠勤していた。翌日にはさらに数人。そして一週間後、オフィスには私を含めた男性が3人しか残っていなかった。
警察も、政府も、メディアも混乱していた。世界中で同じ現象が起きていたからだ。男たちは眠っている間に消えていく。残されたのは、彼らが着ていた寝間着だけ。防犯カメラには何も映っていない。ただ、男たちが霧のように消えていく瞬間が記録されているだけだった。
科学者たちは原因を特定できないまま、自らも消えていった。残された女性たちは徐々に新しい社会システムを構築し始めた。そして一ヶ月後、この世界に残された男は私だけになった。
「なぜ私だけが残されたのか」
その問いに対する答えは、予想以上に恐ろしいものだった。
ある夜、私は鏡の前で震えていた。顔が変わり始めていたからだ。いや、正確には「戻り始めていた」と言うべきかもしれない。化粧で隠していたほくろが浮き出し、抜いていた眉毛が生え始め、ホルモン注射で得た滑らかな肌が荒れ始めていた。
そう、私は性別適合手術を受けた身体だった。元々は女性として生まれ、長年の葛藤の末に男性として生きることを選択した。完全な手術を終えてからまだ2年。やっと自分らしく生きられると思っていた矢先の出来事だった。
「これは『純粋な男』を淘汰するための現象なのか」
そう考えると、吐き気がこみ上げてきた。私の体は日に日に「元の姿」に戻っていく。しかし、心は確かに「男」のままだ。その乖離が私を引き裂いていく。
政府の研究施設に保護された私は、毎日のように検査を受けている。女性の研究者たちは私の体の変化を観察し、サンプルを採取し、「男性消失現象」の謎を解こうとしている。
彼女たちの目には、どこか期待が込められているように見える。この現象が「自然の摂理」だとでも言いたげな表情。まるで、男という性が地球上から一掃されることが、正しい進化の過程であるかのように。
夜になると、消えていった男たちの声が聞こえる気がする。彼らは私を責めているのか、それとも羨んでいるのか。「純粋な男」ではない私が生き残ったことを、どう思っているのだろう。
鏡を見るたびに、自分の顔が誰のものなのか分からなくなる。髭を剃る必要がなくなり、声は高くなり、体つきは柔らかくなっていく。でも、心の中の「男」は消えない。むしろ、体が女性化していくほど、心の中の男性性は強くなっていく気がする。
それは祝福なのか、それとも呪いなのか。
研究者たちは「あなたは貴重なサンプル」と言う。でも、私は実験台であると同時に、「最後の男」という生き証人でもある。この世界に、もう一度「男」という性が必要とされる日は来るのだろうか。
今夜も私は日記をつけている。いつか誰かが、この狂った現象の真実を知りたいと思う日が来ることを信じて。そして、その時になって初めて人々は気づくのかもしれない。「男」や「女」という二元論で割り切れない、人間の性の複雑さに。
ペンを置き、私は再び鏡を見る。そこには、もう「男」とも「女」とも言えない、ただの「人間」の姿があった。