【怖い話】最終目的地

深夜の雨の中、私は帰りのタクシーを待っていた。

仕事の飲み会が長引き、終電はとうに過ぎていた。傘を強く叩く雨音と、遠くで鳴る雷の音だけが、静まり返った駅前に響いていた。十月の冷たい雨は、骨の髄まで染み込んでくるようだった。

一台のタクシーが、水しぶきを上げながら私の前に停まった。少し古びた黒塗りの車体。助手席の窓が開き、老いた運転手が顔を覗かせた。

「どちらまで?」

「東山区の菊水町まで」

彼は無言で頷き、後部座席のドアが自動で開いた。

乗り込むと、車内には古い革の匂いが漂っていた。座席の革は所々擦り切れ、窓のクロムメッキは曇っている。メーターには料金が表示されず、古いタイプのアナログ時計だけが、カチカチと音を立てていた。

「随分と古い車ですね」と私は言った。

バックミラー越しに見える運転手の目が、一瞬だけ私と合った。「そうですか?」彼の声は意外と若く、外見とのギャップがあった。

車は静かに走り出した。窓の外では、街の明かりが雨に滲んで流れていく。不思議と、他の車や歩行者の姿が見えない。

「今日は空いてますね」

「ええ、こんな夜は皆、安全な場所にいるものです」

その言葉に違和感を覚えつつも、疲れた私は座席に深く沈み込んだ。気付けば、車は見慣れない道を走っていた。

「ここは…」

「近道です」運転手は前を見たまま答えた。「貴方を目的地に送り届けます」

窓の外を見ると、街の明かりはすっかり消え、霧に覆われた山道を走っていた。恐怖が背筋を走る。

「止めてください。ここで降ります」

運転手は答えず、ただ速度を上げた。

「聞こえませんか?止めてくれ!」

「降りられません」彼の声は冷たく響いた。「一度乗ったら、最終目的地まで行かなければならない。それがルールです」

パニックになった私は、ドアを開けようとしたが、ドアノブは外れ落ちた。そして気づいた。座席の革の間から、人間の指のような突起が見える。天井からは、髪の毛のような細い糸が垂れている。

「これは…タクシーじゃない」

バックミラーに映る運転手の顔が、ゆっくりと変わっていった。目は大きく窪み、皮膚は灰色に変色している。

「気づくのが遅すぎました」彼は笑った。歯のない口から、黒い液体が滴り落ちる。「これは『送迎車』です。最後の旅路の」

恐怖で動けなくなった私に、彼は静かに語り始めた。

「私は長い間、この仕事をしています。生と死の境界線上を走る運転手です。通常、私の車に乗るのは、すでに死を迎えた魂だけ。でも、時々、生きている人間が間違って乗り込むことがある」

「私は…死んでいない」

「本当に?」運転手は尋ねた。「思い出してください。飲み会の後、何がありましたか?」

記憶を辿ろうとすると、奇妙な空白に気づいた。飲み会を出た後、駅に向かう途中の記憶がない。

「あなたは駅前の横断歩道で、スピードを出した車にはねられました。その時計は、あなたの死亡時刻で止まっているのです」

彼が指さす先の古い時計は、午前0時17分で止まっていた。

「嘘だ…」声が震えた。

「受け入れるのは難しいでしょう。みんなそうです」彼の声は突然優しくなった。「でも安心してください。私はあなたを正しい場所に送り届けます」

窓の外の風景が変わっていた。霧の向こうに、懐かしい光景が見える。子供の頃の家。学生時代を過ごした校舎。初めて就職した会社のビル。そして…私が生まれた病院。

「人生の風景は、最後には始まりへと戻るのです」運転手は言った。「これがあなたの旅路です」

私の中の恐怖が、不思議な平穏に変わっていくのを感じた。確かに、体は冷たく、心臓の鼓動を感じない。でも、それは恐ろしいことではなかった。

「もうすぐ到着します」運転手が言った。

車は徐々に減速し、真っ白な光の中に入っていった。

「最後に一つ、質問していいですか?」私は尋ねた。「あなたはなぜ、この仕事をしているのですか?」

バックミラーに映る彼の顔は、もう怖いものではなかった。疲れた、とても古い魂を持つ存在にしか見えなかった。

「私も、かつては人間でした。そして、運命の乗り物に乗り遅れたのです。今は、誰も乗り遅れないよう、送り届ける役目を与えられました」

車が完全に止まり、ドアが開いた。外は眩しいほどの光。

「さあ、降りてください。ここがあなたの目的地です」

私は恐る恐る一歩を踏み出した。光の中に、見覚えのある人々の姿が見え始めた。

「運賃は?」思わず尋ねた。

運転手は微笑んだ。今度は、人間の笑顔だった。

「あなたはすでに支払いました。人生という名の乗車料金を」

タクシーはゆっくりと後退し、霧の中に消えていった。そして私は、新たな旅路へと足を踏み出した。

人は皆、この世という停留所から、次の目的地へと向かう旅人なのかもしれない。そして時に、黒い車が雨の夜に現れ、最後の送迎をしてくれるのだろう。

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