地方の廃校となった小学校を訪れたのは、秋も深まった十月の終わりだった。
私は故郷を離れて二十年。実家の整理のために帰省したついでに、幼い日々を過ごした母校を見に来たのだ。青葉台小学校は五年前に統廃合で閉校となり、校舎は取り壊しを待つばかりと聞いていた。
錆びついた正門をくぐると、かつての校庭が広がっていた。雑草が膝まで伸び、白線は消え、鉄棒は赤茶けている。それでも、この空間の広がりだけは記憶通りだった。
夕暮れが近づき、西日が校庭を橙色に染め始めた頃、不思議な音が聞こえてきた。
笛の音。そして、子どもたちの歓声。
振り返ると、校庭には白い線がくっきりと引かれ、運動会の準備が整っていた。紅白の旗がはためき、応援席には父母たちの姿。そして、白いユニフォームを着た子どもたちが整列している。
幻覚か、と目をこすった。だが、光景は消えない。むしろ、より鮮明になっていく。
「北島くん、こっちこっち!」
聞き覚えのある声に振り向くと、小学校六年生の担任だった村上先生が手を振っていた。若い。そう、私が卒業した時のままの姿だ。
「リレーの準備だよ。急いで」
混乱する頭で、私は自分の体を見下ろした。小さな手足。白い運動着。胸には「6年2組」の名札。
私は、私自身の十二歳の姿に戻っていた。
震える足で、クラスメイトの列に加わる。みんな懐かしい顔ばかり。中には、大人になってからニュースで事故死を知った友人も。そして、後ろの列には…
「北島、バトン、ちゃんと渡せよ」
笑いながら肩を叩いたのは、親友だった佐藤だ。彼は中学一年の夏、この校庭の池で溺れて亡くなった。
「お前、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
言葉が出ない。佐藤は生きていて、みんなは十二歳のままで、時間が止まったかのようだ。
「よーい、スタート!」
笛が鳴り、レースが始まった。走る足は軽い。風を切る感覚が懐かしい。バトンを受け取り、全力で駆け抜ける。そして佐藤へとバトンを渡した。
レースが終わり、みんなで勝利を喜び合った。汗ばんだ額を拭いながら、ふと空を見上げると、夕日が校舎の向こうに沈もうとしていた。
「もう終わりの時間だね」
振り返ると、佐藤が静かに微笑んでいた。その目には、子どもには似つかわしくない深い諦めが浮かんでいた。
「どういう意味だ?」と私は聞いた。
「気づいてないの?ここは、終わらない運動会なんだよ」
佐藤の言葉に、背筋に冷たいものが走った。辺りを見渡すと、確かに不自然なことに気づく。観客席の親たちの顔がぼやけている。空の色が変わらない。そして何より、六時を指したままの校舎の時計。
「僕たちはずっとここにいるんだ。毎日が運動会。永遠に」
「でも、なぜ?」
佐藤は校庭の端を指さした。そこには古い桜の木があり、その下に小さな祠が見える。
「あれが理由さ。昭和三十年代、この学校で運動会の練習中に事故があったんだ。一人の生徒が倒れた鉄棒の下敷きになって…。それから、学校は毎年その子の魂を慰めるために、校庭の隅に祠を建てたんだ」
「じゃあ、私たちも…」
「そう、僕たちも同じ。僕は池で、田中は交通事故で、木村は病気で。みんな、この学校に関わる子どもたちだよ。そして、この永遠の運動会に参加している」
恐怖と悲しみが込み上げてきた。私は大人になり、生きている。なぜ私がここに?
「あなたはまだ生きてる」佐藤は私の疑問を読み取ったように言った。「だから、すぐに戻れる。でも、母校を訪ねてくれて嬉しかった」
その時、スピーカーから校歌が流れ始めた。運動会の終わりを告げる合図だ。
「行かなきゃ」佐藤が言った。「また来てね」
目の前の光景が徐々に薄れていく。友人たちの姿、白線の引かれた校庭、紅白の旗、すべてが夕闇に溶けていった。
気がつくと、私は雑草の生い茂る廃校の校庭に一人立っていた。夕日はすっかり沈み、辺りは暗く静まり返っている。
帰り際、校庭の隅に足を向けた。そこには確かに、古い祠があった。苔むした石の上に、新しい折り紙の鶴が置かれている。私のものではない。
学校という場所は、単なる建物や土地ではない。そこには無数の記憶と時間が堆積し、時に異なる時代が交錯する。校庭は子どもたちの歓声と涙を吸収し、魂の一部を永遠に留め置くのかもしれない。
帰り道、私は運動会で歌った校歌を口ずさんでいた。そして不思議と、どこからか和音のハーモニーが聞こえてくるような気がした。