夕暮れの校舎に差し込む西日が、廊下の埃を金色に染めていた。新任の英語教師・村田は、この春から赴任した中学校の職員室で一人残業していた。もう八時を過ぎている。
村田は最後のテストの採点を終え、疲れた目をこすった。この三ヶ月、彼は「良い教師」になろうと必死だった。生徒たちの名前を覚え、教材を工夫し、質問には丁寧に答えてきた。だが、どこか心の片隅では「自分は本当に教師に向いているのだろうか」という疑念が渦巻いていた。
鞄を持って廊下に出ると、校舎はすでに静まり返っていた。暗がりの中、村田は三階の西側の廊下を歩いていた時、ふと立ち止まった。右手に見えるはずの3年2組の教室が、そこにないのだ。
「おかしい…」
確かにこの位置に教室があるはずだった。だが、そこには壁があるだけで、ドアの痕跡すらない。疲れているせいか、方向感覚が狂ったのかと思い、村田は歩みを進めた。
次の日、村田は同僚の古参教師・佐藤に尋ねた。 「3年2組の教室って、西側廊下の一番端ですよね?」 佐藤は不思議そうな顔をして答えた。 「いや、この学校には3年2組はないよ。1組と3組しかない」
村田は混乱した。確かに自分は3年2組の授業を持っていたはずだ。記憶を辿ると、顔と名前は浮かぶのに、妙にぼやけている。
放課後、村田は西側廊下の端まで行ってみた。昨夜見た壁はなく、そこには確かに教室があった。だが、その教室には「3年4組」と書かれていた。
「こんな教室、昨日まであったっけ…?」
教頭室に行き、学校の配置図を調べると、確かに3年2組の記載はない。職員室の出席簿にも3年2組の名簿はなかった。
不安に駆られた村田は、図書室で古い学校誌を調べ始めた。ページをめくると、十年前の記事に目が止まった。
「本校3年2組にて起きた不幸な事故により、担任の山下先生と生徒28名が犠牲に…」
村田の手が震えた。記事によれば、その教室は事故後に封鎖され、改築時に完全に取り壊されたという。しかし村田の記憶では、確かにその教室で授業をしていた。
その夜も村田は残業した。意図的に遅くまで残り、西側廊下を訪れると、そこには昨夜と同じ壁があった。壁に手をかけると、不思議なことに手が壁を通り抜けた。
恐る恐る中に入ると、そこには教室があった。黒板には「英語テスト」と書かれている。生徒たちは黙々と問題を解いていた。驚いたことに、彼らの姿はやや透き通って見えた。
「先生、遅いですよ」 前列の少女が微笑みながら言った。
村田は震える声で尋ねた。 「君たちは…誰?」
「忘れちゃったんですか?私たち、3年2組ですよ」
村田はようやく理解した。自分が持っていたと思っていた授業は幻ではなく、十年前に亡くなった生徒たちとの交流だったのだ。彼らは自分たちを教えてくれる教師を待ち続けていた。山下先生と共に旅立つことができずに。
「私は…君たちの先生だったのか」
少女は首を横に振った。 「違います。でも、先生は私たちの声を聞いてくれた。それだけで…私たちは嬉しかった」
一瞬、教室全体が明るく輝き、生徒たちの姿が薄れていった。 「ありがとう、先生」という声が教室に響き渡り、すべてが静寂に包まれた。
翌日、村田が西側廊下を訪れると、そこには普通の壁があるだけだった。だが彼は確信していた。自分は「良い教師」になる道を歩み始めていることを。時に見えないものを見る目を持ち、聞こえない声に耳を傾ける。それが、真の教育者の姿なのかもしれない。
教壇に立つ我々は、目の前の生徒たちだけでなく、過去と未来の魂にも語りかけているのだから。