「あら、素敵なカーテンね」
新居に引っ越してきた日、妻の莉子がそう言った。確かに、この古い洋館風アパートの一室には、異様に立派な深紅のカーテンが備え付けられていた。重厚な生地で、まるで劇場の緞帳のようだった。部屋の片側の壁一面を覆い、その存在感は圧倒的だった。
「でも、向こうは別の部屋?それとも壁?」
私たちは好奇心に駆られてカーテンを開けてみたが、そこにあったのは真っ白な壁だった。奇妙な設計だと思いつつも、私たちはそれ以上深く考えなかった。家賃が安かったことに感謝しながら、新生活を始めたのだ。
しかし、不思議なことに、そのカーテンは常に閉めていても少しずつ開いていた。就寝前にきちんと閉めておいても、朝になると数センチの隙間があいている。
「風のせいかな」と私。
「ネズミかも」と莉子。
私たちは神経質にならないよう心がけた。
ところが一週間後、最初の異変が起きた。
夜中に目覚めると、カーテンの向こうから柔らかな光が漏れていた。私は半ば寝ぼけながらも不思議に思い、カーテンに近づいた。すると、向こう側から微かに音楽が聞こえてくる。古いオルゴールのような音色。
カーテンを開けると、そこはもう白い壁ではなかった。小さな劇場の客席に繋がっていたのだ。赤いビロードの座席が並び、舞台では何かの公演が行われているようだった。しかし客席には誰もおらず、舞台上の人物たちの動きはどこか機械的だった。
驚いて莉子を起こそうとしたが、振り返ると彼女の姿はなかった。ベッドには私一人だけ。そして部屋に戻ろうとした時、カーテンが閉じてしまった。必死に開けようとしたが、もはやただの壁に戻っていた。
翌朝、莉子は何事もなかったかのように朝食を作っていた。昨夜のことを話すと、彼女は心配そうな顔をした。
「悪い夢を見たのね。このところ仕事が忙しいから」
それから数日間、普段通りに過ごした。しかし夜ごとに、カーテンの隙間から漏れる光と音楽は強くなっていった。そして私は気づいた。莉子の様子がおかしい。彼女はカーテンを見つめる時間が長くなり、一人で微笑んでいることが増えた。
ある夜、また光に誘われてカーテンを開けると、今度は莉子が舞台の上で踊っていた。彼女は優雅に、しかし人形のように動いていた。客席には、人の形をした影が数十体、静かに座っていた。
「莉子!」と叫んだが、彼女は気づかない。
恐る恐る客席に足を踏み入れると、影たちが一斉に私の方を向いた。彼らには顔がなかった。ただ、黒い靄のような形だけがあった。
その瞬間、舞台から莉子の声がした。
「あなたも観客になりなさい」
私は震える足で舞台に向かった。近づくにつれ、莉子の肌が人形のように艶やかで不自然なことに気づいた。彼女の目は生気のない硝子玉のようだった。
「ここはどこなの?莉子、帰ろう」
彼女は首を横に振った。「私はずっとここで踊りたかったの。永遠に、拍手の中で…」
舞台の袖から、黒衣の人影が現れた。その手には操り人形の十字架。糸は莉子に繋がっている。
恐怖に駆られて逃げ出そうとしたが、客席の影たちが立ち上がり、私を取り囲んだ。彼らは皆、過去の住人たちだと直感的に理解した。カーテンの魔力に取り込まれた者たち。
「あなたの席はここよ」
莉子の声に導かれるように、最前列の席に座らされた。幕が下りかけ、赤いカーテンが視界を覆っていく。莉子の笑顔が、最後に見えた。
今、私はこの劇場の観客となった。時々、カーテンの隙間から新しい住人たちの姿が見える。彼らにも、いずれ気づいてほしい。赤いカーテンの裏側に広がる永遠の劇場の存在に。
そして私は待っている。いつの日か、私も舞台に立つ日を。