【怖い話】旋律の囁き

深夜の音楽室には、いつも何かが潜んでいる。

高校三年生の木村は、そのことを誰よりも理解していた。彼は放課後になると必ず音楽室に足を運び、誰もいなくなった時間帯にピアノの練習をすることを日課としていた。人前で弾くことに強い不安を感じる木村にとって、この時間は貴重だった。

あの日も、木村はいつものように放課後の音楽室で練習していた。夕暮れ時、窓から差し込む橙色の光が次第に薄れていく中、彼はショパンのノクターンを奏でていた。

弾き終えた瞬間、木村は不意に背筋に冷たいものを感じた。

「上手いね」

声が聞こえた。振り返ると、音楽室の隅に一人の少女が立っていた。校則で禁止されている長い黒髪を持ち、白い制服を着ている。木村は彼女を見たことがなかった。

「君は…?」

「私も音楽が好きなの」少女は答えた。「特に、この学校の音楽が」

少女は木村に近づき、ピアノの横に座った。その瞬間、木村は彼女の姿がどこか透けて見えることに気がついた。恐怖が全身を駆け巡る。

「弾いてみない?この曲」

少女はピアノの楽譜を示した。木村が見たこともない楽譜だった。五線譜の音符が不規則に配置され、まるで苦しんでいるような形をしている。タイトルには「最後の旋律」と書かれていた。

恐怖心を抑えつつも、木村は好奇心に駆られてその曲を弾き始めた。最初の数小節は平凡だったが、やがて音楽は奇妙な転調を始めた。不協和音が続き、まるで誰かの叫び声のような音色がピアノから発せられる。

弾き続けるうちに、木村の頭に映像が浮かび上がった。この学校で起きた悲劇の数々。火災で亡くなった生徒たち。そして音楽室で首を吊った少女。

「やめて…」木村は震える手で演奏を止めようとしたが、指が勝手に動き続ける。

「続けて」少女の声が変わった。甘美な声から、かすれた恐ろしい声へと。「私の曲を最後まで弾いて」

木村の指は彼の意思とは無関係に鍵盤の上を踊り続けた。汗が彼の額から滴り落ち、指先からは血が滲み始めていた。鍵盤は徐々に赤く染まっていく。

その時、音楽室のドアが開いた。

「木村くん、まだいたの?」音楽教師の山田先生だった。

瞬間、少女の姿は消え、木村の指は止まった。ピアノの上に置かれていた奇妙な楽譜も消えていた。

「先生…」木村は震える声で言った。「この音楽室で、自殺した生徒がいるんですか?」

山田先生の表情が凍りついた。

「誰から聞いたの?」

「今、ここに少女がいて…」

山田先生は深いため息をついた。

「20年前、この音楽室で女子生徒が自殺したことがあった。彼女は作曲に情熱を注いでいたんだが、ある日、彼女の楽譜が盗まれて、別の生徒が作曲コンクールで優勝してしまった。その後、彼女は自分の最後の曲を作り、その楽譜を胸に抱いて…」

木村は言葉を失った。

「彼女の名前は?」

「確か、音無さくら。彼女の遺体が発見された時、奇妙なことに楽譜は消えていたんだ」

その晩、木村は不思議な夢を見た。音楽室で少女と一緒にピアノを弾いている夢だった。目覚めると、彼のベッドサイドに一枚の楽譜が置かれていた。「最後の旋律」というタイトルの楽譜。

次の日から、学校中の生徒たちが口ずさみ始めた奇妙な旋律。それは木村が夢の中で弾いた曲だった。廊下ですれ違う生徒たち、教室で勉強する生徒たち、校庭で運動する生徒たち、みんなが同じ旋律を口ずさんでいる。

そして一週間後、学校全体が狂気に包まれた。次々と生徒たちが自ら命を絶つようになったのだ。彼らは皆、首を吊る前に同じ言葉を残していた。

「さくらの曲を聴いて」

木村だけが生き残った。彼は今も「最後の旋律」の楽譜を持っている。その楽譜を燃やそうとしても、翌朝には必ず彼のベッドサイドに戻ってくるのだ。

そして夜になると、木村は耳元でさくらの囁きを聞く。

「私の曲を世界中に広めて」

誰かがこの物語を読んでいるなら、注意してほしい。見知らぬ旋律が頭の中で鳴り始めたら、それはもう始まっているということだ。あなたの耳にも、さくらの旋律が届いているかもしれない。

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