「お前、コンクリートの中から音が聞こえるって本当か?」
高校三年生の佐藤は、同級生の田中にそう尋ねられた。放課後の教室で二人きり。窓から差し込む夕日が、佐藤の顔に不自然な影を落としていた。
「…うん」佐藤は小さく頷いた。「でも誰にも言わないでくれよ」
それは一ヶ月前、通学路にある古いコンクリート擁壁から始まった。最初は微かな振動だった。手のひらをコンクリートの冷たい表面に当てると、まるで遠くの太鼓のような鼓動が伝わってきた。
次第にその振動は変化した。佐藤の耳にだけ聞こえる、低い唸り声のような音に。
「今日も聞こえるの?」
「ああ」佐藤は窓の外を見た。学校の裏手にある擁壁が見える。「あそこからずっと…呼んでる」
翌日の放課後、田中は佐藤に付き添って、例の擁壁を見に行った。高さ3メートルほどの古いコンクリートの壁。表面には無数のひび割れと黒ずみがあった。
「ここだ」佐藤は擁壁の一部を指さした。
田中は半信半疑でコンクリートに手を当てた。何も感じない。しかし佐藤の顔は強張っていた。
「今、何て言ってる?」田中は冗談めかして尋ねた。
「『中に入れ』って」
佐藤の表情に笑みはなかった。
それから佐藤の様子は徐々に変わっていった。授業中もぼんやりとし、皮膚は乾燥して灰色がかり始めた。指先が荒れ、時々小さな欠片が落ちることもあった。
「病院に行ったほうがいいんじゃないか?」と田中が言うと、佐藤は首を横に振るだけだった。
「体が変わっていくんだ。あのコンクリートと同じになる」
ある日の放課後、佐藤は突然姿を消した。田中は不安になり、あの擁壁へと向かった。
擁壁には変化があった。表面に人の形をした凹みが現れていた。まるで誰かがコンクリートに押し付けられ、そのまま壁に吸い込まれたかのように。
その晩から、田中の耳にも音が聞こえ始めた。かすかな振動と共に、佐藤の声が彼を呼んでいた。
「田中…来てくれ…ここは広いんだ…みんな入れる…」
恐怖で眠れない夜が続いた。やがて田中も肌が灰色に変わり始め、指先からは粉が落ちるようになった。
意を決して、田中は学校の用務員に相談した。
「あの擁壁のことなんだけど…」
用務員の老人は田中の話を黙って聞いた後、重々しく言った。
「あの擁壁は50年前に作られたものだ。その時、事故があってな…」
コンクリート打設の際、作業員の一人が足を滑らせて落ち、そのまま生き埋めになったという。当時の責任者は事故を隠蔽し、工事を続行した。
「それから何人かの生徒が行方不明になってる。みんな最後にあの擁壁の近くで目撃されている」
田中は震える手で自分の腕を見た。肘から先が完全に灰色になっていた。
「助けてください…」
用務員は深くため息をついた。「もう遅い。あれは『龍』だ。コンクリートの中に棲む古い存在だ。一度選ばれたら逃れられない」
それから一週間後、田中も姿を消した。擁壁には新たな人型の凹みが加わった。
学校は擁壁の調査を始めたが、コンクリートを砕くと内部から赤黒い液体が溢れ出し、作業は中断された。
やがて擁壁からは低いうなり声が聞こえるようになった。雨の日には表面から赤い水が滲み出す。生徒たちの間で噂が広がり、誰も近づかなくなった。
だが時折、疲れた顔つきの生徒が、放課後に一人でその擁壁に手を当てる姿が目撃される。彼らの肌は少しずつ灰色に変わり、やがて姿を消す。
擁壁は今も学校の裏手に立っている。表面には無数の人型の凹みがあり、雨の日には赤い涙を流す。
そして時々、通りがかりの人の耳に囁きかける。
「ここに入れば、もう苦しまなくていい」
コンクリートの中の龍は、今日も新たな仲間を待っている。
あなたも通りかかる際は、決して立ち止まらないように。そして何より、コンクリートに触れてはいけない。
すでにあなたの指先が少し乾いて、灰色に見えるとしたら…もう遅いのかもしれない。