【怖い話】歩む影

河野誠は地下鉄の駅員だった。彼の担当は深夜の最終電車が出た後の構内巡回だった。誰もいなくなった地下の駅は、不思議な静寂に包まれる。足音だけが響く世界。

彼が地下鉄の仕事を選んだのは、「地下」という空間に惹かれたからだった。地上の喧騒から離れた別世界。そして何より、そこには「足」しかなかった。

誠は子供の頃から、人の顔よりも足に興味があった。足は人の本質を表すと思っていた。慌てた足取り、ゆったりとした歩み、引きずるような足音。すべてがその人の内面を映し出していると。

彼は勤務中、通路を行き交う無数の足を観察していた。革靴、スニーカー、ハイヒール、サンダル。すべてに物語があった。

ある夜、最終電車が出た後の巡回中、誠は不思議な足音を聞いた。カツン、カツン、と規則正しく、しかし奇妙なリズムで響く音。まるで三本足で歩いているかのようだった。

「誰かいますか?」

彼の声は虚空に吸い込まれた。足音は続いていたが、その主は見えなかった。

次の夜も、そして次の夜も、その奇妙な足音は続いた。いつも最終電車が去った後に始まり、夜明け前に消える。

一週間後、誠は足音の主を見つけようと決心した。足音を追って暗い通路を進むと、それは突然止まった。振り返ると、そこに一人の老人が立っていた。

「あなたが聞いていたのですね」と老人は言った。

老人の姿は普通だった。しかし、彼の足元を見た誠は息を呑んだ。老人の影が、三本の足を持っていたのだ。

「私の足を見つめないでください。失礼です」

誠は慌てて目を上げた。「すみません。ただ…」

「影のことですか?」老人は微笑んだ。「それは私ではありません。私の歩みに付いてきた何かです」

老人は杖を地面に突いた。その音が、誠が聞いていた三本目の足音だった。

「人は自分の歩みが作る道しか見ません。しかし、足の下には別の世界があるのです」

老人はそう言うと、駅の奥へと歩き去った。その背後の影は、確かに三本の足で歩いていた。

翌日、誠は老人について駅長に尋ねた。しかし駅長は首を振った。

「深夜に駅にいる老人?そんな人はいないはずだ」

その夜、誠は再び足音を聞いた。今度はより多くの音。カツン、カツン、という音が複数重なっていた。彼は音を追った。

暗い通路の突き当たり、非常口の前に立っていたのは、先日の老人だった。しかし今夜は一人ではなかった。十人ほどの人々が集まっていた。老若男女、様々な服装の人々。しかし全員に共通していたのは、その影だった。皆の影が、本人とは違う足を持っていた。二本ではなく、三本、四本、中には数え切れないほどの足を持つ影もあった。

「来てくれましたね」と老人は誠に微笑みかけた。「今夜、私たちは扉を開けます」

老人は非常口を指した。「この先には階段があります。しかし、それは上でも下でもない方向に続いています」

誠は混乱した。「どういう意味ですか?」

「私たちの足は二本。しかし影の足はそれ以上ある。なぜだと思いますか?」

老人は続けた。「私たちは歩みます。しかし実際に道を作るのは足ではなく、影なのです。影の足は、可能性の数だけあります。私たちが選ばなかった道を、影の足は歩いているのです」

非常口が開いた。中には階段があった。しかし誠の目には、それが不自然に歪んで見えた。まるで空間そのものが折り畳まれているかのように。

「さあ、一緒に行きましょう」と老人は言った。「あなたの影も、もう準備ができています」

誠は自分の足元を見た。そこには確かに影があった。しかし、それは彼の立ち姿とは少し違っていた。影は三本目の足を持ち、それは既に階段の方へ一歩踏み出していた。

恐怖と好奇心が入り混じる中、誠は階段に足を踏み入れた。

非常口の向こうの世界は、彼の想像を超えていた。無数の通路が交差し、天井も床も壁も区別がつかないほど歪んでいた。そこを歩く人々の影は皆、本体から分離し、独自の道を歩んでいた。

「ここは「可能性の回廊」です」と老人は言った。「私たちが歩まなかった全ての道が交わる場所」

誠は自分の影を見た。それは既に彼から離れ、独自の動きをしていた。

「あなたの影は、あなたが選ばなかった人生を歩んでいます」

誠は恐る恐る前進した。彼の足元から、新たな影が生まれた。しかしそれは一歩ごとに形を変えた。

「私たちが一歩踏み出すたび、新たな可能性の道が生まれます。そして同時に、歩まなかった道が影となる」

老人は誠の肩に手を置いた。「あなたはこの世界の住人になりますか?それとも戻りますか?」

誠は考えた。この不思議な世界に留まれば、自分のすべての可能性を見ることができる。しかし同時に、一つの現実から切り離されることになる。

「私は…」

彼が答える前に、彼の新しい影が彼の足を掴んだ。影は実体を持ち、冷たく、しかし確かな感触があった。

「もう遅いようですね」と老人は言った。「あなたの影があなたを選びました」

誠の体は少しずつ透明になっていった。彼は自分が影になりつつあることを理解した。そして同時に、彼の影が実体化していくのを見た。

誠が完全に影になった時、彼の元の影は完全な人間の姿になっていた。それは誠と瓜二つだったが、目の輝きが違った。

「私はあなたが選ばなかった可能性です」と影は言った。「今、私があなたの人生を歩みます」

影となった誠は、元の影が階段を上り、現実世界へ戻るのを見送った。彼は初めて理解した。影は単なる光の遮断ではなく、実現しなかった可能性の化身だったのだ。

そして今、彼は無数の可能性の一つとなり、「可能性の回廊」を永遠に歩むことになった。

次にあなたが地下鉄の駅を歩く時、足元の影が少し違って見えたら、それは単なる錯覚ではないかもしれません。あなたの影の足は、あなたが知らない道を既に歩み始めているのかもしれません…

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