あれは梅雨が明けた直後のことだった。 七日間雨が降り続けた後、突然訪れた晴天。 その朝、町は変わってしまった。
最初に気づいたのは小学生の女の子だった。通学路の水たまりを見つめ、叫んだ。 「先生!空が…空が下にある!」
水たまりに映る空。それは単なる反射ではなかった。覗き込むと、底なしの青が広がっていた。まるで地面に空への入り口が開いたかのように。
大人たちは子供の想像力だと笑い飛ばした。しかし、その日の夕方、町じゅうの水たまりが同じ現象を示し始めた。川面、池、雨樋に溜まった水、コップの水さえも—すべてが底なしの空へと繋がっていた。
翌日、最初の犠牲者が出た。 水たまりを覗き込んだまま動かなくなった老人。救急隊が駆けつけた時には、彼の瞳は青空と同じ色に変わり、虚ろな笑みを浮かべていた。
三日目、私の妻が消えた。 「ちょっと買い物に」と出かけたきり、帰らなかった。探しに行くと、スーパーの駐車場で彼女のバッグだけが水たまりの脇に落ちていた。
その夜、私は妻の夢を見た。彼女は水面の向こうから手を振っていた。 「こっちは素敵よ。景色が違うの。何もかもが…正しい向きなの」
四日目、町は封鎖された。研究者たちが全国から集まり、この現象を調査し始めた。彼らの結論は恐ろしいものだった。
「我々の世界は、本来あるべき姿ではない可能性があります。水面に映るのは、本来の世界なのかもしれない」
五日目、雨が再び降り始めた。 水たまりはますます増え、その数だけ「入り口」も増えた。 行方不明者の数も増えていった。
六日目の夜、私は決心した。 妻の最後に見た水たまりの前に立ち、覗き込んだ。
そこには確かに彼女がいた。空の中を泳ぐように浮かび、手を差し伸べている。 「こっちに来て。本当の世界に」
躊躇する私に、彼女は言った。 「怖がらないで。私たちはずっと逆さまの世界に住んでいただけ。こっちが本当の向き。重力も時間も、こっちが正しいの」
私は手を伸ばした。水面に触れると、それは硬い膜のようでありながら、指はすっと通り抜けた。冷たくも熱くもない感触。ただ、存在しないかのような感覚。
その時、背後から声がした。 「やめろ!戻ってこい!」
振り返ると、黒いスーツの男たちが立っていた。 「あれは幻だ。君の妻ではない。あの世界に行った者は皆、『あちら』の一部になる」
しかし、私には妻の姿がはっきりと見えた。そして彼女の後ろには、町の行方不明者たちもいた。皆、穏やかな表情で空中を漂っている。
「本当に幻でしょうか?」私は問いかけた。「もし、こちらの世界が幻だったとしたら?」
男は答えなかった。代わりに、水たまりに向かって何かの装置を向けた。
その瞬間、私は決断した。 体を前に倒し、水面に飛び込んだ。
落ちるのではなく、浮かび上がる感覚。 重力が逆転し、私は空へと昇っていった。
今、私は青い空の中を泳いでいる。 妻と一緒に。 下を見ると、水たまりを通して古い世界が見える。 逆さまの世界。 混沌とした、歪んだ世界。
もうすぐ雨は止む。 水たまりは乾き、入り口は閉じる。 だが、次の雨が降るまで。
あなたも水たまりを見つけたら、よく覗いてみるといい。 その中に本当の空が見えるかもしれない。 そして、本当のあなた自身も。