【怖い話】着替える影

最初に気づいたのは、夏木が自分の服がタンスの中で微かに動いていることに気が付いたときだった。

布地がゆっくりと脈打つような動き。呼吸をしているかのように。

タンスを開けたとき、すべての服は完璧に畳まれ、何事もなかったかのように収まっていた。しかし夏木は知っていた。誰も見ていないとき、服は生きていると。

それは夫が出張で家を空けた夜から始まった。一人で寝る寂しさを紛らわすために、夏木は自分の結婚式で着たドレスをタンスから取り出した。白い生地に触れると、幸せだった日々の記憶が蘇る。

その夜、ドレスをハンガーに掛けて眠りについた夏木は、奇妙な夢を見た。自分がドレスの中に閉じ込められ、内側から抜け出せない。布地が徐々に締まり、呼吸ができなくなる感覚。

目が覚めると、ドレスが床に落ちていた。そしてそのすぐ横に、人の形をした影が横たわっていた。

部屋の照明をつけると、影は消えた。恐る恐るドレスを拾い上げると、妙に重い。まるで何かを包み込んでいるかのように。

次の日、夏木は不安を感じながらもその出来事を気のせいだと自分に言い聞かせた。しかし、次第に家の中で別の現象が起き始めた。

夏木が着ている服が、彼女の動きとわずかに異なって動く瞬間がある。鏡を見ると、自分の影と服の影が微妙にずれている。

そしてある夜、夫の帰りを待ちながら眠りについた夏木は、自分の体から服が一人で立ち上がるのを見た。半睡半醒の状態で、服が人の形をして部屋の中を歩き回るのを恐怖で凍りついたまま見つめていた。

服は鏡の前に立ち、そこに映った自分の姿を長い間見つめていた。そして突然、鏡の中に吸い込まれるように消えた。

次の日、夏木は心療内科を訪れた。医師は睡眠障害と診断し、薬を処方した。

「服が動いているなんて、ストレスからくる幻覚ですよ」

帰宅した夏木は、全ての服をクローゼットに詰め込み、鍵をかけた。

その夜、夫が出張から帰ってきた。久しぶりに見る彼の姿に夏木は安心した。しかし、何かが違う。夫の表情が硬い。動きもどこか不自然だ。

「どうしたの?」と尋ねると、夫は微笑んだ。しかし、その笑顔は目に届いていなかった。

「何でもないよ。ただ疲れているだけさ」

夜、二人で寝床についたとき、夫は夏木に囁いた。

「君の服、とても素敵だね。着せ替えしているみたいで楽しいよ」

血の気が引いた夏木は、夫の目を覗き込んだ。そこに映るのは夫の姿ではなく、布地のように波打つ何かだった。

「誰…なの?」

夫の口から出てきた声は、夫のものではなかった。

「私たちは着る者を求めている。長い間、タンスの中で眠っていた。でも、あなたが結婚式のドレスに触れたとき、私たちは目覚めた」

恐怖で声も出ない夏木に、夫の皮を被った何かが続けた。

「人間は服を着る。でも、時々服も人間を着る」

その瞬間、夏木は全てを理解した。服は単なる布ではない。それは別の次元からやってきた存在だ。彼らは人間の形をまとい、この世界を体験しようとしている。

夏木の夫は服に着られていた。そして今、その服を着た存在が夏木の傍らに横たわっている。

「次はあなたの番だよ」

夫の顔がゆっくりと布地のように剥がれ始めた。その下に見えたのは、何もない空虚だった。

夏木が最後に見たのは、自分の全身を覆い始める無数の布地だった。彼女は服に包まれ、服になっていく。

あなたの着ている服は、本当にあなたの服だろうか?それとも、服があなたを着ているのだろうか?

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