【怖い話】観察者の窓

高層マンションの一室で、私は毎日窓から向かいのマンションを観察している。引きこもって3年。外の世界との接点は、この窓だけだ。

社会不安障害という診断を受けてから、外出することができなくなった。代わりに、向かいのマンションの住人たちの生活を観察することが、私の日課となっていた。15階から見下ろす景色は、まるで人生という舞台の観客席のようだった。

毎朝7時、203号室の若い会社員が出勤する。8時には701号室の主婦が洗濯物を干す。夜9時には505号室のカップルがいつも口論している。私は彼らの生活を記録し、物語を想像して楽しんでいた。

しかし、先月から様子がおかしい。

最初に気付いたのは、203号室の会社員が突然、出勤時間を変えたことだった。いつもより2時間早い。そして帰宅後、必ず窓の外を見上げるようになった。私の部屋の方向を。

次は701号室。主婦が洗濯物を干すとき、明らかに不自然な動きをするようになった。まるで関節が逆に曲がっているかのよう。そして、彼女も時々窓の外を見上げる。

505号室のカップルは、ある日を境に口論をしなくなった。代わりに、二人して窓の前に立ち、私の方向を見つめるようになった。

私は怖くなって、カーテンを閉めることにした。しかし、夜になると隙間から青白い光が漏れてくる。向かいのマンションの全ての窓が、同じ青白い光を放っているのだ。

恐る恐るカーテンを開けると、向かいのマンションの全ての住人が、一斉に窓の前に立っていた。彼らは皆、首を不自然な角度に傾け、私の方を見ている。

その夜、私のスマートフォンに見知らぬ番号から着信があった。恐る恐る出ると、多くの声が重なり合って聞こえてきた。

「観察、ありがとうございます」

私は震える手でスマートフォンを切った。しかし、すぐに新しいメッセージが届いた。差出人は「向かいの住人一同」。

『あなたは3年間、私たちを観察してきました。そして、私たちの生活に物語を与えてくれました。おかげで、私たちは「人間らしく」振る舞うことができました。でも、もう充分です。今度は、私たちがあなたを観察する番です』

その日から、私は24時間、向かいの住人たちに見つめられ続けている。彼らは交代で窓の前に立ち、私の全ての行動を記録しているようだ。時々、スマートフォンに彼らからのメッセージが届く。

『トイレが長すぎます』

『もっと頻繁に水を飲むべきです』

『睡眠時間が不規則です』

『なぜ泣いているのですか?』

私は何度も警察に通報しようとした。でも、この状況を誰が信じるだろう?そもそも、私の観察行為も立派なストーカー行為だったのではないか。

今日、彼らからの新しいメッセージには、こう書かれていた。

『観察期間は終了しました。お疲れ様でした。明日から、あなたも私たちの仲間です。窓の前でお待ちください』

私は今、最後の記録を書いている。窓の外では、青白い光が徐々に強くなっている。もう逃げることはできない。窓の外には、整然と並んだ人々が、首を傾げて私を待っている。

きっと明日から、私も彼らの一人として、誰かの人生を観察することになるのだろう。そして、また新しい観察者が現れるまで。

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