高校三年の秋、私たちのクラスに奇妙な現象が起き始めた。
それは、朝の出席確認から始まった。担任の久保先生が名簿を読み上げ、「佐藤」と呼んだとき、誰も返事をしなかった。しかし先生は、まるで誰かが応えたかのように頷き、次の名前へと進んだ。
最初は気にも留めなかった。転校したか、長期欠席の生徒がいるのだろうと思っていた。しかし、次の日も同じことが起きた。そして次の日も。
「佐藤って誰?」と私が隣の高橋に尋ねると、彼は不思議そうな顔をした。 「え?佐藤なんて、このクラスにいないよ」
しかし、教室の後ろから三番目、窓側の席には確かに誰かの机と椅子があった。ただ、そこに座る人間の姿はなかった。
放課後、私は教室に残って、その席の机を調べてみた。引き出しには教科書とノートが入っていた。ノートを開くと、きれいな字で授業の内容が記されていた。最新のページは昨日の日付だった。しかし、私にはその内容が読めなかった。まるで文字が霞んでいるように見えた。
翌朝、私はクラスメイトたちに尋ねた。 「ねえ、佐藤って知ってる?」
全員が首を横に振った。しかし、その日の昼休み、校庭で昼食を取っていた時、二年生の女子が私に話しかけてきた。
「あの、佐藤さんのこと、調べてるんですか?」
彼女の名は小林といい、佐藤と同じ中学だったという。 「佐藤さんは、去年の冬に亡くなったんです。交通事故で…」
驚いた私は、すぐに担任の久保先生に相談した。先生は長い沈黙の後、ため息をついた。
「佐藤明日香。確かに去年、交通事故で亡くなった。でも、彼女は君たちのクラスメイトだったことはない。彼女は隣のクラスの生徒だった」
しかし、毎朝の出席確認で名前が呼ばれ、誰もいない席に机と椅子があり、引き出しには使用中の教科書とノートがある。この矛盾に、私は眠れない夜を過ごした。
次の日、私は早めに学校へ行き、佐藤の席に座ってみた。すると、不思議なことに、周囲の景色が少し変わったように感じた。窓から見える木々の色が鮮やかになり、空の青さがより深く感じられた。
そして、教室のドアが開き、クラスメイトたちが入ってきた。彼らは私を見て驚いた顔をした。
「おはよう」と私が言うと、誰も返事をしなかった。まるで私が透明人間になったかのようだった。
恐怖に震え、私は席を立とうとした。その時、背後から声がした。
「私の席から離れてくれる?」
振り返ると、制服を着た少女が立っていた。髪を黒いリボンで結び、少し憂いを帯びた瞳をしていた。
「佐藤…明日香?」
彼女は微笑んだ。「そうよ。あなたには見えるの?」
それから私たちは放課後、誰もいない教室で話した。彼女は確かに交通事故で亡くなったが、その事実を受け入れられずにいるという。毎日学校に来て、授業を受け、ノートを取る。しかし、誰にも見えず、誰にも話しかけられない。
「でも、どうして先生は出席を取るの?」と私が尋ねると、彼女は悲しそうな顔をした。
「久保先生は、私の担任だったの。事故の日、私が部活で遅くまで残っていることを知っていたのに、声をかけずに帰ってしまった。もし先生が私を家まで送っていたら、あの事故は起きなかったかもしれない。先生は、そのことを後悔しているのよ」
その日から、私は佐藤と静かな友情を育んだ。誰にも見えない彼女と、放課後に話したり、時には一緒に下校したりした。彼女の存在は淡く、時に私の幻想ではないかと思うこともあった。
卒業式の日、私は佐藤の席に花を置いた。するとその花が、ふわりと宙に浮き、誰かの手に持たれているように見えた。
「ありがとう。もう大丈夫よ」
彼女の声が風のように教室を通り抜けた。
その日以降、佐藤の席は消え、出席確認で彼女の名前が呼ばれることもなくなった。久保先生も、少し晴れやかな表情になった。
時々、私は母校を訪れることがある。そして校庭の桜の木の下に立つと、制服姿の少女が微笑みながら手を振っているように感じることがある。彼女は、この世界と次の世界の間の「クラス」に属し、自分の居場所を見つけたのかもしれない。
私たちは皆、目に見えるクラス、目に見えない「クラス」に属している。そして時に、その境界線は曖昧になる。人の記憶と忘却の狭間で、存在は揺らぎ、時に永遠に続くのだ。