私の部署では、毎週金曜日の夕方に週報会議が行われる。終業時刻の18時から始まり、通常は1時間程度で終わるはずだ。しかし、部長の長谷川は無駄に話を引き伸ばすことで有名で、残業が深夜に及ぶことも珍しくなかった。
その日も例外ではなかった。時計は21時を指している。会議室の窓からは、都心の夜景が広がっていた。高層ビルの明かりは、まるで星空のように美しい。しかし、その光景を楽しむ余裕は誰にもなかった。
「次に佐藤君、先週の営業報告を頼む」
長谷川部長の声で我に返る。七人目の報告者だ。あと三人で私の番が来る。疲労と空腹で集中力が途切れかけていた。
ふと気づくと、部長の右側に座っていた課長の井上が、もう姿を消していた。確か先ほどまではそこにいたはずだ。トイレに立ったのかもしれない。だが、戻ってくる気配はない。
佐藤の報告が終わり、次の報告者へと移った。気がつけば、さらに二人の同僚の姿が見当たらなくなっていた。不思議に思いながらも、眠気と戦い続けた。
「木村君、次は君だ」
私の名前を呼ばれ、慌てて資料を手に取る。報告を始めようとした瞬間、異変に気づいた。会議室には私と部長の二人だけになっていた。
「あの、他のみなさんは?」
部長は不思議そうな顔をした。
「何を言っているんだ?今日から始めた君一人のための特別研修だよ」
混乱する私。確かに今日は週報会議のはずだ。周囲を見回すと、テーブルには他の社員の資料や水の入ったコップが残されていた。しかし、部長は何事もなかったかのように続ける。
「さあ、報告を続けたまえ」
恐る恐る報告を再開する私。話しながら、時計を見た。23時30分。いつの間にかこんな時間になっていた。
報告が終わると、部長は満足げに頷いた。
「よし、今日はここまでだ。来週も同じ時間に」
安堵のため息をつき、私は立ち上がった。しかし、会議室のドアに手をかけた瞬間、背後から部長の声が聞こえた。
「木村君、どこへ行く?まだ終わっていないよ」
振り返ると、部長はまだ席に座ったままだった。しかし、その姿が少し透けて見える。まるでホログラムのように。
「終わったと言ったじゃないですか…」
「いいや、言っていない。さあ、座りたまえ」
混乱しながらも、私は席に戻った。部長は再び私の報告について質問を始めた。同じ内容を何度も繰り返すような質問。時計を見ると、針は動いていなかった。23時30分のまま。
「あの、もう遅いので…」
「時間なんて関係ないだろう?仕事が終わるまでが仕事だ」
部長の声が少し歪んで聞こえた。その顔も、どこか別人のように見える。私は恐怖を感じ始めていた。
「トイレに行ってもいいですか?」
部長は無言で頷いた。私は急いで会議室を出た。廊下に出ると、オフィスは完全に暗く、静まり返っていた。誰もいない。窓の外を見ると、都心の夜景は消え、ただ漆黒の闇が広がっているだけだった。
携帯を取り出すと、圏外表示。時刻は23時30分で止まったままだ。
恐る恐るトイレに向かった。鏡に映った自分の顔は、青白く、疲労で目の下にクマができていた。水で顔を洗おうと蛇口をひねったが、水は出なかった。
鏡をもう一度見ると、そこに映っていたのは私だけではなかった。背後に、かつての同僚たちが立っていた。皆、疲れ果てた表情で、透けるように薄い。
振り返ったが、そこには誰もいなかった。再び鏡を見ると、彼らは依然としてそこにいた。
「帰れないんだ」と一人が囁いた。
「会議は永遠に続く」と別の一人が言った。
「あなたも…私たちの仲間になる」
恐怖に駆られて、私はトイレを飛び出した。エレベーターに向かって走ったが、全てのエレベーターは動いていなかった。非常階段へと向かうと、ドアには「使用禁止」の札がかかっていた。
再び会議室に戻るしかなかった。ドアを開けると、部長はまだ同じ姿勢で座っていた。しかし、その周りには先ほどまでいなかった人々が座っていた。全員が以前この部署にいた社員たち。既に退職した者、転属した者、中には数年前に過労で亡くなったと聞いていた先輩の姿もあった。
「おかえり、木村君」部長が微笑んだ。「さあ、君の席に座りたまえ。今夜の会議はまだ始まったばかりだ」
私の指定された席に目をやると、そこには透明になりかけた自分自身が既に座っていた。その「私」は疲れ切った表情で資料を読み上げていた。
「いいえ…」
私は後ずさりした。しかし後ろのドアは消えていた。部屋には壁しかない。
「抵抗しても無駄だよ」部長が言った。しかし、それはもう部長の声ではなかった。何か別のものが部長の姿を借りていた。「皆、最初は抵抗するんだ。でも結局は受け入れる。永遠の残業を」
私の周りの空間が歪み始めた。会議室の壁が溶けるように変形し、無限に広がるオフィス空間へと変わっていく。そこには無数の会議室があり、それぞれに疲れ果てた社員たちが座り、終わらない会議を続けていた。
「君の席はここだよ」
いつの間にか、私の目の前に椅子が現れていた。その上には名札があり、そこには「木村」と書かれていた。
「どうしたんだ?早く座りなさい。報告はまだ終わっていない」
部長の声が、会議室中に響き渡った。抵抗する力が抜けていくのを感じた。
私は、ゆっくりと椅子に座った。
翌朝、清掃スタッフが会議室で私を発見した。机に伏せた状態で眠っていたという。医師の診断は急性の過労だった。一週間の自宅療養を言い渡された。
しかし、金曜日が再びやってきた。週報会議の時間だ。私は会議室に向かいながら、不思議な違和感を覚えていた。
会議室のドアを開けると、部長が微笑みながら迎えてくれた。
「やあ、木村君。調子はどうかね?さあ、君の席に座りたまえ。今夜の会議はこれから始まるところだ」
窓の外を見ると、都心の夜景が広がっていた。美しい光景だ。だが、よく見ると、どの建物の窓も、小さな会議室のように見えた。そして、その全てに人影があった。
永遠に続く会議を続ける人々の影が。