私は道路標識を見失った。いや、正確には標識が私を見失ったのだ。
それは、深夜のドライブ中に気づいたことだった。いつもの帰り道、見慣れたはずの標識が、どこか違って見えた。最初は単なる疲れだと思った。しかし、標識の矢印が、確かに違う方向を指していたのだ。
交通標識は、私たちの移動を秩序立てる。それは人間社会の約束事を視覚化したものだ。右折禁止、一時停止、徐行。私たちはその指示に従うことで、安全に目的地へとたどり着ける。少なくとも、そう信じていた。
翌日、私は同じ道を通った。しかし、昨夜とは異なり、標識は正しい方向を指していた。安心したのもつかの間、別の標識が私の目を引いた。それは明らかに新しく、しかし同時に古びていた。まるで長年そこにあったかのように。
その日から、私は標識の変化に注意を払うようになった。すると、異常は次第に顕著になっていった。標識は、見る時間によって異なる指示を示すようになった。そして時には、まったく新しい標識が突然現れる。誰もそれに気づいていないようだった。
ニーチェは「永遠回帰」を説いた。同じ出来事が無限に繰り返されるという思想だ。しかし、私の目の前で起きているのは、むしろその逆だった。標識は確実に変化し、そして私たちを異なる方向へと導こうとしている。
先週、私は試してみた。標識の指示とは逆の道を進んでみたのだ。すると驚くべきことが起きた。見知らぬ街並みが現れ、そこには見たこともない標識が立ち並んでいた。それらは、既存の交通規則では説明できない奇妙な記号で構成されていた。
人間は記号で世界を理解する。言語学者のソシュールが指摘したように、記号は恣意的だ。赤信号が「止まれ」を意味するのは、私たちがそう約束したからに過ぎない。では、標識が自らの意思で意味を変え始めたら、私たちの世界はどうなるのだろう。
昨日、私は恐ろしい発見をした。自宅の窓から見える標識が、こちらを見ていたのだ。それは確かに、丸い標識の表面に描かれた記号が、ゆっくりと回転して私の方を向いていた。まるで、私の行動を監視しているかのように。
標識は私たちの行動を制御する装置なのかもしれない。それは単なる案内ではなく、人類の意識を特定の方向へと誘導する仕掛けなのではないか。そして今、その仕組みが少しずつ露わになりつつある。
私は地図を広げ、標識の位置を記録し始めた。すると、それらは何かのパターンを形作っているように見えた。まるで、巨大な記号を地上に描いているかのように。その意味は分からない。しかし、確実に何かが進行している。
今朝、私は決心した。標識の指示に完全に逆らってみることにしたのだ。右折禁止の標識があれば右に曲がり、進入禁止の標識があれば進入する。これは単なる反抗ではない。標識の本当の目的を理解するための実験だ。
この行為が危険だということは分かっている。しかし、もはや従来の交通規則は意味をなさない。標識たちは、私たちを未知の目的地へと導こうとしている。そして私は、その行き先を知りたいのだ。
今、私の目の前には見慣れない標識が立っている。それは既存の交通標識のどれとも異なる、不可思議な形をしている。この標識が示す先に、何があるのだろう。これを最後に、私は標識たちの導く道を行くことにする。
もしあなたが、いつもと違う標識に気づいたなら、それは偶然ではないかもしれない。標識たちは、次はあなたを選ぶかもしれないのだから。