祖母の遺品整理をしていた時、私は一枚の着物を見つけた。
深い紺地に、無数の幾何学模様が織り込まれたその着物は、一見すると古典的な意匠に見えた。しかし、よく見ると模様は少しずつ形を変え、まるで生きているかのように蠢いていた。
最初は目の錯覚だと思った。疲れているのだろう、と。だが、その着物を手に取った瞬間、私は確信した。この模様は、確かに動いているのだと。
祖母は若い頃、着物の模様を描く仕事をしていたと聞いていた。しかし、彼女は突然その仕事を辞め、それ以来、着物に関する話題を一切口にしなくなった。理由を尋ねても、「模様と深く関わりすぎると、良くないことが起こる」と言うだけだった。
私は美術大学で染織を専攻していた。着物の模様には、単なる装飾以上の深い意味が込められていることを学んでいた。例えば、波の模様には永遠性が、雲の模様には天上の世界が象徴されている。そして、模様を描く行為には、世界の本質を写し取ろうとする人間の欲望が込められているのだと。
その夜、私は祖母の着物を前に座り、模様を写し取ることにした。しかし、描けば描くほど、模様は複雑さを増していった。まるで、私の描く行為に反応するかのように。
気がつくと、部屋の壁紙にも同じような模様が浮かび上がっていた。天井、床、私の肌にまで、その模様は広がっていった。それは既視感を伴う模様でありながら、完全に把握することは不可能な、奇妙な性質を持っていた。
後日、私は祖母の日記を見つけた。そこには衝撃的な事実が記されていた。模様を描く者は、やがて模様そのものになってしまうのだと。世界の真理を模様として写し取ろうとする行為は、結果として描き手自身を模様の一部として取り込んでいく。それは一種の代償なのだと。
日記の最後のページには、「模様の向こう側には、私たちの想像を超えた何かが存在している」と書かれていた。そして、「その存在は、私たちが模様を通じて世界を理解しようとする努力に興味を持っているようだ」とも。
今、私は自分の体が少しずつ透明になっていくのを感じている。肌には微細な模様が浮かび上がり、それは日に日に複雑さを増している。鏡に映る自分の姿は、まるで模様で描かれた一枚の絵のようだ。
もしかしたら、世界そのものが巨大な模様なのかもしれない。私たちが認識できる現実は、その模様の一部に過ぎないのではないか。そして私は今、その模様の一部となりつつある。
祖母は警告していた。模様と深く関わることの危険性を。しかし今となっては、後戻りはできない。私の意識は、模様の持つ無限の複雑さの中に溶け込もうとしている。
これを読んでいるあなたも、気をつけた方がいい。模様をじっと見つめすぎてはいけない。なぜなら、模様もまた、あなたを見つめ返しているのだから。
私の体は確実に、模様の海に飲み込まれつつある。しかし不思議なことに、恐怖は感じない。むしろ、ある種の解放感すら覚える。人間の形を失い、永遠の模様の一部となることに。
ただ、最後に一つだけ言っておきたい。もしあなたが、動く模様を見つけたなら、決してそれを写し取ろうとしてはいけない。なぜなら、それは模様があなたを選んだというしるしなのだから。