【怖い話】足跡の記憶

私の足は他人の記憶を吸収する。

それに気づいたのは、新しい中古マンションに引っ越してきた時だった。フローリングを素足で歩いていると、突然、見知らぬ記憶が流れ込んできた。

子供が転んで膝を擦りむいた痛み。
恋人と別れを告げた時の寂しさ。
家族と過ごした温かな日々の情景。

それらは確かに、このマンションの前の住人たちの記憶だった。床に刻まれた無数の足跡が、記憶を保存していたのだ。

哲学者のベルクソンは、人間の記憶について興味深いことを述べている。記憶は脳だけでなく、物質世界にも保存されうると。物質が持つ「持続」の概念は、私の体験と奇妙に重なり合う。

最初は恐れを感じた。他人の記憶が勝手に流れ込んでくることへの不安。しかし次第に、その能力に魅了されていった。

足の裏から伝わる記憶は、まるで詩のように美しかった。時には悲しく、時には喜ばしく。人生の様々な断片が、床という舞台で永遠に踊り続けている。

しかし、その能力は次第に強くなっていった。

部屋の中だけでなく、外を歩いても記憶が流れ込むようになった。アスファルト、タイル、砂利道。その上を歩いた人々の記憶が、まるで映画のように私の中に流れ込んでくる。

「記憶の海に溺れないように気をつけて」

同じ能力を持つ老人に出会った時、彼はそう忠告した。

「私たちは『記憶の受け皿』なんです。でも、受け止めすぎると、自分が誰なのかわからなくなる。私の友人は、他人の記憶に飲み込まれて、自分の存在を失ってしまった」

その言葉の意味を、私は後になって理解することになる。

ある雨の日、古い神社の石段を上っていた時のことだ。

何百年もの参拝者たちの記憶が、一気に流れ込んできた。江戸時代の商人、明治の学生、昭和の家族。あまりの情報量に、私は意識を失いそうになった。

気がつくと、私の足は石段に溶け込もうとしていた。まるで、記憶に引き寄せられるように。

慌てて逃げ帰ったが、それ以来、私の足は少しずつ透明になっていった。

他人の記憶を受け止めすぎた代償なのだろうか。あるいは、これも記憶の一形態なのだろうか。

哲学者のメルロ=ポンティは、身体は世界との接点だと説いた。私の場合、その接点が記憶という形で現れている。そして今、その接点が曖昧になりつつある。

「自分の記憶」と「他人の記憶」の境界が、どんどん薄れていく。

今では、自分の過去の記憶さえ、本当に自分のものなのか確信が持てない。私は誰なのか。これは私の人生なのか。それとも、誰かの記憶の中の一断片なのか。

時々、夜中に目が覚めると、足が床に溶け込もうとしているのを感じる。まるで、記憶の海に引き込まれるように。

私は必死に抵抗する。でも、記憶の潮流は確実に私を浸食している。

いつか、私も完全に記憶の一部となり、誰かの足の裏を通じて体験される「記憶」になるのだろうか。

それとも、私の意識は永遠に記憶の海を漂うことになるのだろうか。

足元を見ると、もう膝下が透けて見える。

そして今も、新たな記憶が絶え間なく流れ込んでくる。

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