古いアパートに引っ越してきて三日目のことだった。私は片付けの途中、押し入れの奥から一枚の便せんを見つけた。少し黄ばんだその紙には、達筆な文字で「読まないでください」と書かれていた。
好奇心から、私はその紙を裏返した。しかし、裏面は真っ白だった。
「変なの」と呟き、その紙を机の上に置いて、荷解きを続けた。
翌朝、目を覚ますと、あの紙が枕元に移動していた。確かに机の上に置いたはずなのに。私は不思議に思いながらも、「昨夜、寝ぼけて持ってきたのかもしれない」と自分に言い聞かせた。
その日の夕方、帰宅すると、紙は玄関に落ちていた。そして今度は裏面に薄く文字が浮かび上がっていた。
「私の言葉を読んでしまったのですね」
手が震えた。誰かのいたずらだろうか。しかし、このアパートでは私を知る人はいないはずだ。
恐る恐る、その紙を持ち上げ、再び裏返してみた。「読まないでください」の文字は消え、代わりに「もう遅い」と書かれていた。
その夜、私は不安で眠れなかった。目を閉じると、あの紙の文字が浮かんできた。そして、ふと思いついた。もし本当に誰かのいたずらならば、その紙を破り捨ててしまえばいいのだ。
翌朝、決意を持って紙に向かった。しかし、机の上にあったはずの紙は見当たらなかった。部屋中を探し回ったが、どこにも見つからなかった。諦めて仕事に出かけることにした。
会社のデスクに着くと、目の前の書類の間に、あの紙が挟まっていた。今度は「私を破ることはできません」と書かれていた。
冷や汗が背中を伝った。これはただのいたずらではない。何かが起きている。
その晩、私は友人に電話して状況を説明した。「幽霊なんてありえないよ。誰かがお前をからかっているんだ」と彼は言った。その言葉に少し安心し、彼の家に一泊させてもらうことにした。
翌朝、友人の家の玄関先で目を覚ました。どうやら夜中に玄関まで歩いて、そのまま眠り込んでしまったらしい。手には例の紙が握られていた。今度は「逃げられません」と書かれていた。
恐怖で頭がおかしくなりそうだった。友人を起こし、紙を見せようとしたが、彼の目には何も書かれていないように見えるらしかった。「真っ白な紙じゃないか」と彼は言った。
事態は日に日に悪化した。私の周りには次々と紙が現れるようになった。買ったばかりのノート、トイレットペーパー、新聞、書籍のページ―あらゆる紙に同じメッセージが浮かび上がるようになった。
「あなたは忘れています」 「思い出してください」 「あの日のこと」
そして一週間後、すべての謎が解けた。
古い新聞記事を見つけたのだ。そこには五年前、このアパートで起きた殺人事件について書かれていた。被害者は前の住人で、犯人は捕まっていなかった。記事の写真に写っていた部屋は、今の私の部屋だった。
そして、記事の隅に小さく、被害者が残した最後のメモについて触れられていた。「読まないでください」と書かれた一枚の紙だったという。
頭痛がした。断片的な記憶が蘇ってきた。私はここに住んでいたことがある。そして、あの紙を書いたのは…
鏡を見ると、そこには見知らぬ顔が映っていた。いや、本当は見知っていた。五年前、私が奪った命の持ち主だ。
恐怖で叫ぼうとしたが、声は出なかった。代わりに、体から無数の紙が剥がれ落ちていった。肌が紙のように剥がれ、その下からは別の顔、別の体が現れ始めた。
そして私は理解した。私こそが紙だったのだ。五年前の記憶を封じ込めるために作られた、偽りの存在。本当の私は、あの日この部屋で死んだのだ。
最後の紙片が床に落ちる時、部屋には誰もいなくなっていた。ただ一枚の便せんだけが残され、そこには「忘れないでください」と書かれていた。
外では風が強く吹き、無数の紙切れが舞い上がっていた。それは皆、同じメッセージを運んでいるように見えた。