【怖い話】広場の渦

誰かが私を見ている。

振り返ると、広場の中央にある噴水から血のように赤い水が溢れ出していた。だが周囲の人々は誰一人として気にする様子もなく、ただスマートフォンを見つめるか、会話に耽っているだけだった。

私がこの奇妙な広場を初めて訪れたのは、姉の失踪から三ヶ月後のことだ。遺された日記には最後にこう書かれていた。「広場の真ん中で、みんなが見えなくなるの。でも私には見える。あの渦が。」

警察は単なる家出として処理し、両親も諦めかけていた。だが私には信じられなかった。姉は決して家族を置いて消えるような人間ではなかったからだ。

広場に足を踏み入れた瞬間、皮膚が粟立つような感覚に襲われた。空気が微かに震え、音が少しだけ遠くなる。まるで現実と非現実の境界に立っているかのようだった。

噴水に近づくと、赤い水は普通の水に戻っていた。幻だったのだろうか。だが水面に映った自分の顔は、どこか違って見えた。目の奥が空洞のように黒く、唇が不自然に引き攣っている。

「あなたも見えるの?」

突然声をかけられて振り向くと、十代前半くらいの少女が立っていた。痩せこけた頬と、異様に大きな目が印象的だ。

「何が見えるって?」

「渦よ。この広場の中心にある渦。みんな気づかないフリをしているだけ」

少女は噴水を指差した。よく見ると確かに、水面が渦を巻いているように見える。だがそれは、ただの水の流れではなかった。水の中でなく、水の向こう側で何かが回っていた。空間そのものが捻じれ、歪んでいるかのように。

「姉もこれを見たのか?」

「知らない。でも、見えちゃった人は皆、いつか渦に吸い込まれる。私もそうなるわ」

少女は諦めたような表情で言った。

「なぜそんなことに?」

「だって、あれは出口だから」

不思議に思って尋ねた。「出口?」

「この世界の出口よ。ここは本当の世界じゃない。気づいてないだけ」

少女の言葉に、姉の日記の断片が頭をよぎった。「この世界は誰かの夢かもしれない。私たちはその夢の中で苦しんでいる。でも広場には出口がある。」

信じがたい話だったが、どこか引き込まれるものがあった。気がつくと毎日広場に通うようになっていた。そして少しずつ、周囲の人々の不自然さに気づき始めた。

彼らの会話は同じパターンの繰り返し。動きも微妙に不自然で、まるで不完全なプログラムのようだった。一度気づくと、その違和感は日に日に強くなる。

ある日、噴水を見つめていると、水面に姉の顔が映った。驚いて手を伸ばすと、水は固体のように変形し、私の手を包み込んだ。冷たくも熱くもなく、感覚がないのだ。

引き戻そうとしたが、腕が徐々に水中に引き込まれていく。恐怖で叫ぼうとしたが、声は出なかった。周囲の人々は相変わらず私を無視している。

その時、少女が私の隣に現れた。

「抵抗しないで。向こう側は怖くないわ。むしろ、こっちの方が怖いのよ」

彼女の言葉に、不思議な安心感を覚えた。体がさらに引き込まれていく。水中に入ったはずなのに、息はできた。そして見えた。無数の人々が渦の中を漂い、その先には煌々と光る出口のようなものが。

その中に姉の姿も見えた。彼女は微笑み、手を差し伸べていた。

最後に振り返ると、広場には別の私が立っていた。虚ろな目で周囲を見回し、スマートフォンを操作している。そして少女も、二人いた。

気づいてしまった。私たちは皆、影のような存在なのだ。本当の自分は別の場所にいて、ここにいるのは「コピー」に過ぎない。

渦は強くなり、私の意識は光の中へと溶けていった。

広場は今日も変わらず、人々で賑わっている。誰一人として気づかない。中央の噴水で、現実が少しずつ溶けていることに。

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