私の指から伸びる赤い糸が見えるようになったのは、父の葬式の日からだった。
最初は幻かと思った。人差し指の先から伸びる一本の細い赤い糸。触れようとすると、指をすり抜け、でも確かにそこにある。葬儀場で気づいた時は、その糸が棺の中の父の胸元へと繋がっていた。
帰宅後、糸は天井へと伸び、壁を貫き、どこかへ続いていく。翌朝、窓の外を見ると、糸は空へと伸びていた。父の魂へと続いているのだろうか。
しかし一週間が過ぎても糸は消えず、私はこの現象に慣れ始めていた。ある日、電車で通勤中、ふと気づいたことがある。周囲の人々の指からも、同じような糸が伸びているのだ。赤や青、緑、黄色…様々な色の糸が、車内に張り巡らされていた。
誰もそれに気づいていないようだった。私だけが見える世界。
同僚の健太の指からは緑の糸が伸び、隣の部署の村田さんからは青い糸。それらは天井を突き抜け、見えない場所へと続いている。
一カ月後、私は気づいてしまった。これらの糸は人と人とを繋いでいるのだと。
健太の緑の糸は、同じフロアで働く沢田さんの小指へと繋がっていた。二人は互いに好意を抱いているらしい。一方、経理部の藤原さんの黄色い糸は、彼女の夫だろうか、オフィスの外へと伸びていた。
私の赤い糸はどこへ続いているのだろう。
それから私は、人々の糸を観察するようになった。恋人同士は同じ色の糸で繋がれ、夫婦の糸は時に色あせ、時に鮮やかだった。家族の絆は太く、友人関係は細く複雑に絡み合っていた。
ある日、小さな古道具屋に迷い込んだ。店内に入ると、老婆が微笑んで迎えてくれた。彼女の指からは糸が見えなかった。代わりに、彼女の周りには無数の切れた糸の端が漂っていた。
「あなたも見えるのね」老婆は私の目を見て言った。
驚いて言葉を失う私に、老婆は続けた。「その赤い糸は『未練』よ。あなたは父親の死を受け入れていないから見えるようになった」
「みんなの糸も…?」
「それぞれ違うわ。愛情、憎しみ、嫉妬、執着…人の感情は目に見えないけれど、形がある」
「どうすれば消えるんですか?」
老婆は小さなハサミを取り出した。「切ればいい。だがその代償は大きい」
迷った末、私はハサミを受け取った。家に帰り、父へと繋がる赤い糸を切ろうとした瞬間、恐ろしい幻覚に襲われた。父の姿が目の前に現れ、悲しげな顔で私を見つめている。
震える手でハサミを置いた。まだ切る勇気がなかった。
翌日、同僚の健太が急に倒れ、救急車で運ばれた。病院に駆けつけると、彼の緑の糸が切れかかっていた。糸の端は、廊下の向こうの病室へと続いている。
そこには沢田さんがいた。交通事故で意識不明の重体だという。二人の糸はかろうじて繋がっていたが、どんどん細くなっていく。
突然、沢田さんの心電図が平らになり、医師たちが慌ただしく動き始めた。その瞬間、糸が切れた。
健太は目を覚ましたが、彼の目は虚ろだった。「沢田さんのこと、誰だっけ?」と彼は言った。まるで記憶から消えたかのように。
恐ろしさで足がすくんだ。糸が切れると、繋がりそのものが消えてしまうのだ。
老婆の店に戻ると、彼女はもういなかった。店も消えていた。
あれから一年、私は父への未練の糸を大切にしている。切れば楽になるのかもしれないが、それは父との最後の繋がりを失うことでもある。
今日、鏡を見ていたら気づいた。私の指からは、赤い糸だけでなく、青や緑、黄色の糸も伸びるようになっていた。それらは友人や恋人、新しい家族へと続いている。
人生とは、こうして糸を紡いでいくものなのかもしれない。切れる糸もあれば、新たに生まれる糸もある。
だが時々思う。この世界中の糸は、最終的にどこへ辿り着くのだろうか。そして、私たちは本当に自分の意志で糸を紡いでいるのだろうか。
今夜も私は、指から伸びる無数の糸を見つめながら、眠りにつく。