空を見上げた瞬間、息が止まった。
それは確かに雲だった。だが、普通の雲ではない。巨大な喉の形をした雲。赤みがかった縁取りに、黒い空洞が口を開けている。まるで天が裂け、向こう側から何かが覗いているかのようだった。
私だけがそれを見たのではない。通りを行き交う人々も皆、立ち止まって空を見上げていた。スマートフォンを掲げる者もいれば、恐怖に震えて祈り始める老婆もいた。
あれは自然現象なのか、それとも何か別のものなのか。
三日前から、この町では人が消えている。最初に消えたのは隣に住む佐々木さん。彼女は洗濯物を干していた時、突然姿を消した。残されたのは、半分だけ干された洗濯物と、地面に落ちた空のバケツだけ。
次の日は商店街の八百屋の主人が。その翌日は小学校の用務員が。そして今朝、私の妹が。
共通点は一つ。彼らが最後に目撃されたとき、皆、空を見上げていたということ。
雲の喉は、日が暮れるとともに色を濃くしていった。やがて満月が昇り、その光が雲を照らすと、喉の奥に何かが蠢いているのが見えた。
人だった。消えた人々が、喉の内側から這い出ようとしているように見えた。
恐怖に震える町民たちの間で、様々な噂が飛び交った。「世界の終わりだ」「神の裁きだ」「政府の実験だ」。だが、誰も真実を知らなかった。
その夜、私は決意した。妹を取り戻すために、あの雲の正体を突き止めなければならない。
町で一番高いビルの屋上に上り、雲を観察し始めた。双眼鏡を通して見ると、雲の中で人影がさらにはっきりと見えた。彼らは苦しそうに口を動かし、何かを伝えようとしているようだった。
その中に妹の姿も。彼女は直接私を見つめ、何かを叫んでいた。だが、声は届かない。
そのとき、妹の口の動きから言葉を読み取った。
「見ないで」
次の瞬間、雲から何かが落ちてきた。いや、降りてきた。それは人の形をしていたが、顔のない透明な存在だった。地上に着くと、人々の間を歩き始め、次々と彼らの顔を奪っていく。
顔を奪われた人々は、空を見上げ、ゆっくりと足が地面から離れ、雲へと吸い込まれていった。
私は震える手で携帯電話を取り出し、この光景を撮影した。しかし、画面には何も映っていなかった。雲も、顔のない存在も、浮かび上がる人々も。
信じてもらえないだろう。だが、記録しなければ。
ノートに急いで状況を書き記していると、背後から冷たい気配を感じた。振り返ると、顔のない存在が私を見下ろしていた。
恐怖で足がすくみ、叫び声すら出ない。存在は私に手を伸ばし、顔に触れようとした。
その瞬間、妹の声が頭の中に響いた。「目を閉じて。見なければ、彼らはあなたを認識できない」
咄嗟に目を閉じた。冷たい感触が頬を撫でる。だが、何も起こらない。
勇気を出して、少しだけ目を開けると、存在は混乱したように首を傾げていた。そして、別の獲物を求めて立ち去った。
理解した。彼らは「見られる」ことで実体化し、「見る者」を捕える。目を閉じれば、認識できないのだ。
屋上から降り、人々に警告しようとしたが、誰も信じなかった。「雲なんて見えない」と言う者もいれば、「ただの気象現象だ」と片付ける者も。
三日目の夜、雲の喉は町全体を覆うほどに巨大化していた。顔のない存在も増え、もはや半数以上の住民が雲に吸い込まれていた。
残された人々は、私の言葉を信じ、目を閉じて家の中に隠れるようになった。
七日目、突然の豪雨が町を襲い、雲は溶け始めた。雨と共に、消えた人々が地上に降り注いだ。だが、彼らは変わっていた。目は虚ろで、表情がない。そして皆、同じことを繰り返し呟いていた。
「見上げろ。空を見上げろ」
妹も戻ってきたが、もはや妹ではなかった。私は彼女を抱きしめ、涙した。「どうして」と問うと、彼女はただ一言。
「彼らは見られることを渇望している」
その日から、私たちの町では、空を見上げることが禁じられた。窓には暗い布が張られ、外出時には傘が配られるようになった。
だが今でも、雨の日には、虚ろな目をした人々が空を指差し、呟くのが聞こえる。
「見上げろ。彼らは待っている」
そして時々、雲の切れ間から、巨大な喉のような形が見えることがある。