私が最初に妻の変化に気づいたのは、彼女が寝室の隅に巣を作り始めた日からだった。
「何をしているの?」と尋ねると、妻は驚いたように振り返った。 「何が?」 彼女の指から伸びる細い糸が、壁と天井の間に複雑な幾何学模様を描いていた。しかし妻はそれに気づいていないようだった。
それから彼女の変化は加速した。食欲が消え、昼間はほとんど動かなくなった。夜になると、家の至る所に糸を張り巡らせるようになった。私が糸を片付けようとすると、彼女は激しく抵抗した。
「私の記憶を壊さないで」 そう言った彼女の目は、かつて見たことがないほど澄んでいた。
医者は答えをくれなかった。「身体的には何の異常もありません」と言うだけだ。 精神科医は「現実逃避の一種かもしれない」と言った。
三週間目、妻は寝室の天井に巨大な繭を作り上げた。白い糸で編まれたそれは、人一人が入れるほどの大きさだった。
「もうすぐ完成するの」妻は嬉しそうに言った。「そうしたら、あなたにすべてを見せられる」
その晩、私は彼女の側で眠った。深夜、何かの気配で目を覚ますと、妻はもういなかった。代わりに、天井の繭が微かに脈動しているのが見えた。
「由香?」
返事はない。しかし繭の内側から、かすかな明かりが漏れていた。
脚立を使って繭に近づくと、その表面は意外にも柔らかく温かい。まるで生きているようだった。近づけると、繭の一部が開き、中を覗くことができた。
中には無限に広がる星空があった。
驚愕のあまり後ずさりし、床に転げ落ちた。再び脚立を上り、恐る恐る覗き込む。
そこには確かに宇宙があった。無数の星々、渦巻く銀河、彗星の軌跡。そして遠くに、一人の女性の姿が見える。妻だ。
「由香!」叫んでも声は届かない。
翌朝、私は決心した。繭の中に入ることに。
小さな穴から体を押し込むと、糸は不思議なことに私を受け入れ、内側へと導いた。
中は想像以上に広大だった。頭上には無数の星、足元には終わりなき闇。そして遠くに、糸を紡ぐ妻の姿。
近づくと、彼女は振り返った。微笑んでいる。 「ついに来てくれたのね」
「ここは…どこなの?」
「私の記憶よ」妻は言った。「すべての記憶。あなたとの出会いも、別れも、再会も」
「別れ?再会?」
「私たちは何度も出会い、別れてきたの。前世で、その前の世で。そのすべてを覚えているわ」
彼女の紡ぐ糸は宇宙を形作り、星々を繋いでいた。その一本一本が記憶の断片。人生の瞬間。
「でも、なぜ今…」
「時間がないの」妻は悲しそうに言った。「私の体はもうすぐ限界を迎える。だから、記憶を残そうと思ったの。私たちの愛の記憶を」
その時、繭の外から誰かの声が聞こえた。
「先生!脈が弱くなっています!」
現実に引き戻された私は、病院のベッドにいた。白衣の医師たちに囲まれ、隣のベッドには生命維持装置に繋がれた妻。
「記憶が戻りましたか?」医師が問いかける。「奥さんと一緒に事故に遭われてから、あなたは昏睡状態でした」
私の頭に記憶が押し寄せる。雨の夜の衝突事故。妻を守ろうとして受けた衝撃。そして長い眠り。
妻のモニターが警告音を鳴らし始めた。彼女の命が消えかけている。
私は彼女の手を取った。その指先から、微かに銀色の糸が伸びているように見えた。
「最後まで見せてくれる?」私は囁いた。「僕たちの記憶を」
妻の指から伸びる糸が、私の指に絡みついた。そして再び、私たちは星空の中にいた。
今、病院の一室には二つの空の殻が残されている。私たちの本当の姿は、繭の中の記憶の糸に永遠に織り込まれたまま。
蜘蛛の糸のように細く、しかし決して切れることのない絆で結ばれて。