毎日、私は同じ踏切を通る。
住宅街の端に位置するその踏切は、いつも混んでいた。朝の通勤ラッシュ時には、遮断機が下りるたびに人々がため息をつく。私もその一人だった。
あの日も、いつもと変わらない朝だった。
「また電車か」
隣に立っていた老人がつぶやいた。白髪で背中が丸まり、どこか懐かしい雰囲気を漂わせていた。普段なら気にも留めないが、その日は何故か話しかけてみた。
「この踏切、待ち時間が長いですよね」
老人は不思議そうな顔で私を見た。
「そうかな?私にはむしろ短く感じるがね」
電車が通り過ぎ、遮断機が上がった。人々は一斉に動き出したが、老人はゆっくりと歩き始めた。
「若い人は急ぎすぎるよ。踏切で立ち止まるのも人生の一部さ」
その言葉が妙に心に残った。
次の日、同じ時間に踏切に来ると、また老人がいた。今度は私から話しかけた。
「おはようございます」
老人は微笑んだ。
「君は気づいているかね?この踏切の不思議に」
私は首を傾げた。老人は続けた。
「通過する電車をよく見てごらん。毎日同じ電車だと思うかい?」
その日から、私は電車を観察するようになった。最初は何も特別なことはないように見えた。だが、三日目に気がついた。窓から見える乗客の服装が、季節外れだったのだ。真冬なのに、半袖の人がいる。
一週間後、老人は言った。
「今日は特別な日だ。よく見ておくといい」
その日の電車は、見たこともない古い型だった。窓から見える人々は、昭和初期の服装をしていた。驚いて老人を見ると、彼は静かに頷いていた。
「この踏切は時間の結節点なんだよ。過去も未来も、時々ここを通り過ぎる」
信じられない話だった。だが、それからの日々で、私はさまざまな時代の電車を見るようになった。未来らしき流線型の車両。戦前の蒸気機関車。そして時々、全く見たことのない奇妙な形状の乗り物。
「なぜ私にはこれが見えるんですか?」ある日、私は老人に尋ねた。
「君が立ち止まって、見ようとしているからさ。大抵の人は急いでいて、気づかない」
そして老人は続けた。
「でも、気をつけなさい。時間の踏切には危険もある。長く見すぎると、引き込まれることがある」
「引き込まれる?」
「そう。自分の時間から外れてしまうんだ」
その警告を聞いてから、私は少し怖くなった。だが、好奇心が勝った。
ある雨の日、いつもの時間に踏切に行くと、老人の姿がなかった。代わりに、見たこともない電車が近づいてきた。窓もなく、真っ黒な車体。轟音も振動もなく、静かに滑るように進んでくる。
遮断機が下りているのに、周囲の人々は普通に踏切を渡っていた。まるで彼らにはその電車が見えていないかのように。
私は立ち尽くした。黒い電車がゆっくりと近づいてくる。窓がないはずなのに、私には見える。車内には無数の人々が立っていた。表情のない、灰色の顔。その中に、老人の姿があった。
老人は悲しげな表情で首を振っていた。「来ないで」と口の形で言っているように見えた。
その時、誰かが私の肩を叩いた。振り返ると、そこには老人がいた。
「危なかったね」と老人は言った。「あれは時間の狭間に落ちた者を集める電車だよ。一度乗ると、永遠に自分の時間に戻れなくなる」
「でも、中にあなたがいるように見えました」
老人は苦笑いした。
「私の姿に見えたのは、君自身の未来かもしれないね」
その言葉に、背筋が凍りついた。
「どうすれば、あの電車に乗らずに済むんですか?」
「時間を大切にすることさ。急ぎすぎず、でも立ち止まりすぎないこと」
それから数日後、老人の姿を見かけなくなった。踏切で待つ人々に尋ねても、そんな老人を知る人はいなかった。
あれから一年が経った。私は今でもこの踏切を通る。時々、不思議な電車を見ることはあるが、黒い電車は二度と現れていない。
だが最近、踏切で立ち止まる若者に気づくようになった。彼は時々、通過する電車をじっと見つめている。
今日、私は彼に話しかけてみようと思う。
「この踏切、待ち時間が長いですよね」と。
そして教えてあげよう。踏切で立ち止まるのも人生の一部だということを。